橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

美少女と公共性

美少女と関わり合いを持つと、その関係は公共性を帯びてきます。

 

 

 

どういうことかといいますとね、たとえば、学校でも職場でもいいんですけれど、或るコミュニティーにおいて、美少女がいたとしましょうか。それで、その美少女の存在は、その場では誰もが知るところとなっているでありましょう。少なくとも、彼女は、人知れずひっそりと存在しているということはない筈です。大抵は、そこでのマドンナ的な存在として、みんなに認知される場合が多いと思われます。

 

 

要するに、美人ってのは、好むと好まざるとに関わらず、「公人」としての立場を受け入れねばならない、というわけなのですね。

 

 

 

 

 

それゆえ、そのような女性と関わり合いを持つということは、そこに公共性が生じてくることを意味するのです。

 

 

 

 

 

 

したがって、美少女と個人的に深い関係を築こうと考えるなら、そこに、彼女が所属するコミュニティーそのものを納得させうるような、クリアな大義名分が求められることになりましょう。つまり、合理的かつ正当な理由がないと、美少女を手に入れることはできない、という結論になるわけです。

 

 

美少女の相手をするってことは、彼女の所属する地域社会そのものを相手にするということと同義なのですね。少なくとも、それくらいのパワーがなければ美少女の相手は務まらない、と考えてよいでしょう。

 

 

そうであるなら、彼女との付き合いにおいては、やましい点があってはならない、ということが、論理必然的に導かれてくることになりましょう。つまり、蔭でコソコソと人目を偲んで関係を深めていくような向き合い方では、そもそも駄目であるということになるのですね。

 

 

 

 

正々堂々と関わり合っていくことが大切なのです。

 

 

 

 

近年、法律や条例などで、少女とのみだらな関係を持つことが厳しく取り締まられるようになってきています。しかし、法的に何らやましい点がないのであれば、彼女の家族や保護者、友人たちにも気兼ねすることなく、堂々と、口説いたり、交際をオ-プンにしたりすべきである、ともいえます。

 

 「公共性を帯びてくる」とは、そういうことです。

 

これは、地域社会レベルでの話です。

ここから、さらに対象エリアを拡張して、全国レベルで認知されている美少女の事例を考えてみたいと思います。すなわち、全国区の美少女タレントさんのケースということですね。

そういう人たちの場合は、芸能活動を行なっているので、商業的な、ビジネス上の関わり合いというものを、(ときに)考慮に入れる必要があるでしょう。

  

 

これ、けっこう、スケールの大きい話なんですよね。

 

 

つまり、世の中そのものの、構造に関わる論点でもある、ということなのです。

 

 

 

 

 

 

そこに目を向けないと、答えが見えてきません。

 

 

 

 

 

先ほど、地域のマドンナレベルの美少女の相手をするためには地域社会全体を相手にする力がないと駄目である、と述べましたけれど、じゃあ、全国区の美少女を相手にするってことは一体どういうことなのかといいますとね。

 

 

 

 

 

はっきり言いますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義というイデオロギーそのものの相手をするということ

 

 

 

 

 

 

 

 

これなんですよね。

 

 

 

「資本主義」とは何か、について私なりに考えてみた場合に、みえてきたのは、(ものすごくかいつまんで言うなら)、要するに、次のようなことです。

 

 

 

 

 

「社会における構成員相互間の関係を、お金を媒介として結びつける統治理念である。」

 

 

 

 

 

とまあ、こんなような感じになると思います。

 

お金が、人と人との間を規律づけている、ということになるのですね、この社会においてはね。

 

人間って、神様のような、全知全能のパーフェクトな存在じゃないですよね。

(私自身もそうですけれど)欠点だらけの、未熟者ですよね。

一人で何でもこなせる万能の力を持っていませんよね。

他者からの協力を取り付けない限り、単独では大したことは出来ませんよね。

 

でも、自分に出来ないことでも、代わりに他者にやってもらうことによって、欠点を補うことができます。

そうした流れの中で発展してきたのが、ビジネスであるといえます

そして、それを媒介している専用ツールが、お金なわけです(「お金とは何か」というテ-マについては、別記事にて詳述します)。

 

たしかに、それは私たちがこの社会で暮らしていくうえで、便利だし、必要なものでもあります。

しかしながら、人と人とが互いに協力し合って生きていくなかで、両者の間を規律するものは、それだけではありません。

 

 

 

 

 

 

信頼魅力といったものも、人と人との間の関係を、強烈に結び付ける要素となっています。

 

 

 

 

 

それらは、社会レベルよりも、さらに上位概念たる、自然界・宇宙レベルの根本的メカニズムに関わってくる事柄なので、人と向き合ううえで、より普遍的な考え方が求められます。自然の仕組みに精通している必要があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

そのことを理解したうえで、全国区の美少女タレントさんと向き合うことの意味を考えてみましょう。

 

 

 

まず、人って、それぞれ“物差し”というものを持っていると思います。

大きい物差しを持っている人もいれば、小さい物差しを持っている人もいます。

それでですね、資本主義社会やビジネス、芸能活動といったものの中身や全体像を把握するためには、それらを高い地点から、鳥瞰的に眺めうるような、幅広い視点が必要となってくると考えられます。

 

つまり、大きな“物差し”を使わないと、そうした世界・業界の本質が見えてこない、ということになるでありましょう。

 

少なくとも、対象となっている物事のサイズよりも、大きいスケ-ルの“物差し”じゃなければ、それを推し量ることができませんよね。

スケ-ルの大きい物事を測らなきゃならないのに、自分の“物差し”(すなわち“器”)が小さかったら、測定不可能じゃないですか。

 

 

 

 

 

上回っている必要があるんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それ、凄く、大事なことだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

物事を、より大きな“物差し”で測って、その本質を掴み取り、自分がどうすべきかを判断する。

 

 

相手が全国区であれば全国区であるほど、彼女を取り巻いているフィ-ルド内で、たくさんの人々(所属事務所や業界の関係者、ファンの人たちなど)を納得させうるような、汎用性の高い大義名分を、備えていることが求められる。そしてそれは、自然のメカニズムに即したものでなければならない。

 

 

 

 

 

 

美少女タレントさんと向き合うということは資本主義社会そのものと向き合うことと同義であるってのは、そういうことなのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、そうであるならね。

 

 

 

全国区的に活躍する美少女タレントさんとの間に、深い関わり合いを持つという場合にはね。自分の中での“売り”となってくるのは、この人類社会における、最も普遍的なレベルの科学的・哲学的理論である、ということになるでありましょう。

 

 

 

 

 

 

それを駆使したうえでの、付き合いなのですね。

 

 

 

 

 

もしかしたら、この日本で、ふつうに日本人として生まれ、ふつうに日本の常識の中で育ち、ふつうの考え方を形成してきた人であるという場合は、残念ながら、そのことを理解するのは難しいかもしれません。

 

 

 

 

 

「ふつう」じゃ駄目なんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

常識が通用しないのですよ。

 

 

 

 

 

 

だって、イケメンとかお金持ちが有利なんじゃねーの、みたいに思っちゃいますもんね、普通ならね。

 

 

 

 

 

そのような常識が通用しないんですよ。

 

 

 

 

 

 

日本人としての当たり前の感覚が、通じない。

 

 

それだけでは、資本主義社会そのものの相手は務まらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自身の考え方に、ひと工夫もふた工夫もエッセンスを加えて、よりシンプルで普遍的な方向へと、それを深化・法則化していく必要があるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうした作業を続けていく結果、みえてくるのが、「愛」 と「お金」、どちらのパワーが勝っているかで、美少女タレントさんと強い繋がりを持つための大義名分が作れるか否かが決まってくる、ということなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

私たち人間は、個々が、能力別に、分断された存在です。

 

神様のように、あらゆる能力をすべて兼ね備えているわけではありません。

 

各自の個性に応じて、辛うじて、不完全な、未熟な能力が与えられているにすぎません。

 

 

 

 

 

 

 

 

そうであるがゆえに、その分断された「個」と「個」を相互に結び付け、絆を形成し、欠けている部分を補い合う必要が、我々にはあるわけです。生きていくうえでね。

 

 

 

 

 

 

 

そのための(この社会を代表する)補助的ツ-ルが、「お金」であるといえます。

 

 

 

 

 

「お金」は、補助ツ-ルなんですけれど、個々を互いに結び付ける力の度合いは、きわめて強いものとなっています。

 

 

 

 

 

なぜ、そうなっているのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

それは、この社会を構成する個々の成員たちが、悲しいかな、互いに互いを信用していないからです(過去記事でもご紹介したことがあります)。

 

 

信用していなければ信用していないほど、頼るべき補助ツ-ルは強力である必要があります。

 

 

 

 

 

「お金」の“神通力”は、ここから派生してくることになります。

 

 

 

 

これがもし、お互いが強固な信頼関係で結ばれているのであれば、補助ツ-ルなんか無くても、ダイレクトに、利益や刺激、思いやりといった「恵み」を、存分に、与え合うことができることになります。

 

 

しかしながら、意外なようにも感じられるのだけれど、現実はそうじゃないからこそ、「お金」というものがこの社会で幅を利かせているわけなんですね。

 

 

じゃあ、そもそも、なぜ、この社会の構成員たちは、互いが互いに信じ合っていないのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、「多数当事者関係」になっているからですよ、私たちを取り巻く相互の関係がね。それも、めちゃめちゃスペシャリーに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

要するに、「集団」であり、「組織」であり、「チーム」である、ということなのですよ、我々の暮らしているこの世界がね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メンバー数が多い、ということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのような状況のもとでは、互いの間のアトラクション(引力)が、悲しいかな、弱まってしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえば、ズボンのポケットの中に、いろいろな種類の鍵が、複数、入っているとしましょうか。

アパートの鍵、マンションの鍵、実家の鍵、事務所の鍵、車の鍵、バイクの鍵、自転車の鍵⋅⋅⋅⋅⋅⋅といったように、いっぱいある場合ですね。

それで、自分が或る時、手探りで、自転車の鍵だけをそこからピックアップしなければならなくなったとしましょう、急遽ね。

 

 

でも、そういう状況下では、ポケットからそれだけをピンポイントで取り出すのって、なかなかうまくいかないんですよね。すぐにはね。

 

 

なぜなら、そこには他にもジャラジャラと余計なものが同居しており、目的物との間にある直通の、濃い、強固な繋がりが、阻害されてしまっているからなのですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なかなか、一発必中、ってわけにはいかないんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分と自転車の鍵との間のアトラクションを、一発では形成しずらい、ってこと。

 

 

何回かトライアルを重ねた末、ようやく、それを形成し、目的物を手に取ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それと同様に、私たちは、集団で暮らしているがゆえに、互いにアトラクションを弱め合い、求めるターゲットとの間にストレートな関係を結びにくくしてしまっているのです。

 

 

 

 

 だから、トライアルがなかなか効を奏さない。

 

 

 

そればかりか、奇妙で、理不尽に思えるような出来事が、頻発。

理解力の欠如している人やマナーの悪い人、面倒臭い人、或るいは、極端な話、法律や道徳すら守らない人が現われ、自分を悩ませる。咎め立てしようにも、正論が通じない(そのような現象のことを、私の造語で「ゾンビ・エフェクト」といいます)。

 

 

 

しかもそれを、我々は避けて通ることができない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義社会で生きるってことは、そういうことなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ですけど、恐れることはありません。

 

 

 

先ほどの例でいうなら、ズボンのポケットの中に、自転車の鍵だけを入れておけばいいんですよ。

 

 

 

 

そうすれば、すぐにそれを取り出すことができます。

 

 

 

 

いってみれば、それは、自分と自転車の鍵との間のアトラクション(絆)が強化されていて、互いが互いに、ピンポイントかつダイレクトなストロークを打ち込め合える状態にある、というわけですね。

 

 

 

 

 

 

 

当事者数が、きわめて少ない。

 

 

 

 

 

 

この状態が、最高なんですよ。

 

 

 

 

 

何やっても、うまくいく。

 

 

 

 

 

 

 素晴らしい効果が、もたらされる(そのような現象のことを、私の造語で「エンジェル・エフェクト」といいます)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 余計な邪魔者が少なければ少ないほど、我々は幸せに暮らすことができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♪ 二人だ~け~の~、世~界~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すいません、また挿入しちゃいました。性懲りもなく(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“乾坤一擲の挿入劇”(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛」はいつだって、“ピンポイント”。

 

 

 

 

 

 

その点が、「お金」との間の最大の違いでありましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お金」を稼ぐためには、私たちは、「チーム」を組んで、集団でそれに取り組まなければなりません。

 

 

 

資本主義社会においては、仕事やビジネスは、いつだって“チーム・プレイ”。

 

 

 

 

携わる人員数を多数、想定し、社屋やオフィス、工場などの大きな「箱」、機械や器具、備品、コンピューター・システムなどの設備、社内政治や会議前の根回しといった立ち回りから販路の開拓、業界における人脈形成、各種の法律上の契約関係に至るまで、幅広く、メンバー数を確保する必要がある。

 

それによって、みんなで、無理なく、経済的な利益を稼ぎ出すことができる。

 

 

 

「経済」はいつだって、“分かち合い”。

組織や集団で協力し合いながら、共に利潤を弾き出し、そうしてから、それをみんなで分配し合う。

それが、「経済」です。

 

 

 

逆にいえば、そこでは“個人プレイ”が許されない、ということでもあります。

どんなに才能豊かな人物であっても、「チーム」を組んだうえで、そこからの信用保証やトラブルがあった場合の損害補填の仕組みといった、バックアップ体制を備えていなければならず、そうでないなら、取引云々という以前に、入り口から弾かれてしまいます。まさに“門前払い”です。

スタート・ラインにすら、立っていない。

 

 

 

 

才能があるにもかかわらず、です。

 

 

 

 

宝の持ち腐れ、というわけ。

せっかくの才能を、そういった理由で眠らせちゃっている人って、この社会にけっこういると思います。

 

 

埋もれちゃっているんですね。

 

 

 

 逆に、とくにこれといった才能が無くても、ちゃんとした組織に所属し、チームを組んで仕事ができているなら、やりようによっては、大金を稼いだり、名を馳せることだって、できちゃったりします。

 

 

 

 

 

世の中、そんなもんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、「愛」の構築は、究極の“個人プレイ”。

 

 

 

自分と相手以外に、関係当事者はいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人の間の、精神的・肉体的な接合の場面において、あらゆる物品が、要らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

服さえもね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やっぱり、お互いが、一糸まとわぬ姿のほうが、絶大じゃないですかぁー、引き寄せ合う力がね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

隔てる距離も、ゼロがいい(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

余計なものがあっちゃ困るわけですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「経済」は、逆でしたよね。

メンバーをいかに増員するか、いかに充実した「チーム」を作れるか、が大事。

 そうした前提を備えることができてはじめて、取引相手として受け入れてもらえる。

なぜ、「チーム」とか「組織」が受容されやすいのかっていいますとね、それは、次のような理由に基づいていると考えられます。

すなわちね。集団で仕事をするってことは、そこでのメンバーは、みんな仲間同士であり、業務に対して全員で連帯して責任を負っていることになるわけです。ゆえに、万が一、そのうちの一人が、仕事を投げ出して逃げたり、みんなで分配すべきお金を自分一人が全額抱えて持ち逃げしたりした場合は、仲間に多大なる迷惑がかかることになります。したがって、「組織」というのは、予め、そのようなことにならないように、厳しく構成員を律しているものなんです。仲間を裏切れないようになっているんですね、体制としてね。また、集団であるがゆえに、誰か一人が裏切って取引相手に損害を与えたとしても、それを他のメンバーがカバーするので、そういう点でも、取引先からみて安心材料となり得ます。リスクが小さいのですね。

一方、「個人」でインディペンデントに仕事している場合は、その人が取引相手を裏切ってトンズラを図ったなら、他に責任を取る者は皆無だし、また、事前にそれを防ぐ手立ても無いことが多いでしょう。つまり、相手にとって、リスクが大きいというわけです。

でも、会社や役所などの「組織」は、そのようなリスクがない。

だから、「組織」は「個人」に比べて許容されやすいのですね。

 

 

「組織」は、裏切りや逃亡を防ぐために、そこに所属するメンバーを規則でがんじがらめにするけれど、それが却って相手方からみて受容・認容に値することになるのです。

また、「組織」であること自体が、構成員相互を監視しやすく、牽制しやすい構造になっているともいえるので、やはり、メンバーの暴走を食い止めたり、逃亡を防いだりすることができます。その意味からも、ビジネス社会にとって受け入れやすい存在たりうるのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「逃がさない」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大事なことは、それです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただし、あくまでも、「お金」を生み出すためには、の話ですけど。

 

 

 

 

 

 

「お金」を稼ぐためには、たしかに集団や組織のほうがのぞましいのだけれど、それだと、同時に「ゾンビ・エフェクト」も発生してしまい、奇妙で理不尽なことが起きてきます。

時間的・スケジュール的に拘束されるし、やりたくないこともときに目を瞑らなければならないし、わりとどうでもいいことで怒られたりするわけです。

 

 

 

 

 

 

 

まるでゾンビに足を掴まれたみたいに、身動きが取れず、時の流れから取り残されたような苦しみを味わうことになるのです。

 

 

 

 

 

集団で仕事するほうが取引相手として認めてもらいやすいのは事実です。でも、それって、べつにあちらがこちらを信頼してくれたというわけじゃないんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

ホントは、誰も信じちゃあいない。

 

 

 

 

 

 

 

信じていないからこそ、安心材料を求めているわけですよ。「組織」という名のね。

 

 

 

 

 

 

 

「個人」の自由を制限し、逃げられないようにして、仕事に縛り付けるような体制を整えているがゆえに、「組織」であることが効を奏し、重用されやすくなっている、ってだけの話でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記事を未完のままアップする暴挙(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

ジンジャ-ナ博士とジンジャニウム

前回のブログ記事で、環境を整えない限り充分なエントリーはできない、といった趣旨のことを述べたんですけれど、それはまだその通りで、私はそれを実現しうる環境を手に入れられていません。

だから、本来なら、記事を書きずらい状況にはあるんですけれど、まるでプル-ストが大作を書き上げるかのように、流れ出る想念のままに、頭の中の想いをブログというプレートに乗っけてしまえば、それなりに書けなくもない、ってことに気付きました。

 

“流し想念”。

 

そうであるがゆえに、今回の文章は、纏まりがない感じになると思います。いつもの切れ味がない、みたいな(笑)。

 

 

でも一応、やれるだけやってみたいと思います。

 

 

 

それでは、よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タイトルにある「ジンジャーナ博士」とか「ジンジャニウム」って一体何なんだ、ってことだと思うんですけど、それは、私があちこちの街なかを散歩したりサイクリングしたりしている時に、ふと思い着いた物語における、そこでの印象的・代表的なワ-ドであり、その中に登場する科学者の名前および彼が発明した物質の名前を指しています。

ちなみに、彼の正式名称は、「イズモナ・ムル・ジンジャーナ」といいます。ジンジャー大学の工学部の教授であり、その専門分野における世界的権威です。

 

神社の前を通りかかった際に、着想しました。⛩

 

この、ジンジャニウムという、ジンジャーナ博士が作り出した物質は、どのような性質があるかというと、それを空気中に散布するとすべての神社(社殿や社務所など)を透明なものにして、肉眼で見えなくさせるという作用を持つのですね。

 

これ、凄い事なんですよね。人類史上稀に見る、途轍もない大発明なのです(笑)。物語の中ではね(笑)。

 

ところが、いかんせん、実用性が無い(笑)。

 

たしかに凄い成果ではあるんだけれど、産業面での発展の見込みが、まるで無い(笑)。

 

何百億円という膨大な額のお金を湯水のごとく使っておきながら、得られた成果が、神社を消せる物質という(笑)。

 

 

彼が所属しているのは国立大学なので、研究のための予算は国民の税金で賄われています。それで、そのような非実用的な研究にはもうお金を出せないということで、国からの助成金が打ち切られてしまいそうになり、ジンジャーナ博士は大ピンチに陥ってしまいます。

 

それで、彼がそのことを自宅に帰って家族に報告すると、彼の娘さんが、

 

 

「パパの予算が打ち切られるなんて••••••そんなの、でたらめもいいところだわ!」

 

 

みたいなことを、真っ白いドレスに身を包んだ姿で嘆く、っていう。

べつに、真っ白いドレスを着なきゃならない必要性はまったく無いんですけどね(笑)。

 

 

そして、一方、その国の支配者層の人たちに目を向けると、政府・議会と、軍部との間で、権力を巡る激しい対立が勃発していたのでした。

その地を代々支配してきた伯爵家の出身であるジンジャワ-ル首相と、陸軍のジンジャニティ-大佐とが、血みどろの主導権争いを繰り広げていました。

 

それで、そのジンジャワ-ル首相ってのが、その名の通り、筋金入りのワルなんですよ。権謀術数の限りを尽くし、己れの利益の為であれば手段を選ばない感じのね。

なのに、立場上、ジンジャーナ博士はそいつに研究費の工面をつけてくれるようにお願いし続けなければならないっていう、苦しい状況にあります。

 

 

そこにこそ、ドラマがある、みたいな(笑)。

 

 

彼は、隣国で古墳の研究をしているアメテラサス・コフニクス博士と懇意なんですけれど、運命のいたずらか、やがて、かの国と自国との間に起こった抗争のせいで、二人の友情が引き裂かれてしまいます。

 

そればかりか、突然、隣国の軍隊が、自国領内へと侵攻してきたのでした。

 

そのような状況下にあっても、まだ、ジンジャワール首相とジンジャニティ-大佐は、いがみ合いを続けていたのでした。

その隙を突いて、隣国軍は首都圏に攻め入り、戦車で砲撃してきます。街はたちどころにして、火の海と化しました。🔥

 

 

悲鳴をあげながら、人々が逃げ惑います。

 

 

阿鼻叫喚の世界。

 

 

 

 

地獄絵図。

 

 

 

 

 

ジンジャーナ博士は、娘さんを連れて、反対側にある隣国(中立国)へ逃げ込もうと、国境近くまでやって来ます。

 

 

砲撃の轟音が鳴り響く中、彼は娘さんの手を引いて、走ってゆく。

 

 

だんだん砲弾が二人のすぐそばまで飛んでくる。

砂塵がぱらぱらと降りかかる。

砕け散った岩盤の無数の破片が、二人を襲う。

 

それを振り切るようにして、必死に、無我夢中で、彼らは荒野を駆け抜けてゆく。或るいは終わりなき逃走劇であるかもしれない悲しみの中を。

 

 

 

 

 

 

 

息が上がってきます。

 

 

朦朧とする意識の中で、ジンジャーナ博士は、娘さんの手を強く、強く、握りしめたのでした。

 

 

「神社さえ•••、神社さえあれば••••。⛩」

 

 

娘さんの脚がもつれ、バランスを崩しそうになり、ふらふらとよろめいたと思ったら、次の瞬間、目の前で敵の弾が着弾して、爆発が起こりました。

 

💥💥💥

 

砂埃が舞い上がり、大きな音とともに爆風が博士と娘さんを数メートル吹き飛ばしました。

 

二人は地面に倒れ込んでしまいました。

 

 

「パパ!••••わたし、もう駄目!」

 

 

上空から、制空権を押さえたであろう敵の戦闘機が、機関銃を斉射してきます。それは一瞬のうちに、土の上を撫で払っていきます。

 

🗯🗯🗯、🗯🗯🗯•••

 

弾は二人の身体の、すぐ脇を掠めていきました。

 

戦闘機は一旦、遠方へ飛び去ったけれど、旋回して、またこちらへ迫ってきます。

 

 

ジンジャーナ博士は咄嗟に、娘さんの身体の上に覆い被さりました。

 

 

🗯🗯🗯、🗯🗯🗯

 

💥💥💥、💥💥💥

 

 

 

🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥

 

 

 

銃弾は、再び、二人の身体を掠め、辺りに火柱を上げさせました。

 

 

炎の中で、博士は立ち上がって、娘さんを抱き起こし、そのまま彼女の両肩から両腕にかけての部位を掴んで、前後に揺り動かします。

 

 

「いいか、よく聞くんだ!••••遠くに神社⛩がないか探してみてくれ。••••••きみは私よりも視力が良い!急いで見つけ出してくれ!」

 

 

呆気に取られながらも、 娘さんは頷くと、炎の輪の中 から駆け出していって、周囲を見回しました。

でも、目に付くのは、モスクやチャペルばかりでした。🕌   ⛪️

 

 

神社⛩など、どこをどう見渡してみても、確認することができません。

 

 

まるでカブトムシを獲りに来たのにカナブンやカミキリムシしかいなかった時のような、“これじゃない感”を、娘さんはそのとき覚えたのでした。

彼女は、瞳の形を丸めた後で、片方だけ、上部を4分の1ほど歪め、その美しく、整った顔を、全体的に、僅かに震わせました。

 

 

「ど、どうして•••••。」

 

 

彼女はその場に、しばらく立ち尽くしてしまったのでした。

 

その様子を、炎の揺らめきの向こう側から、ジンジャーナ博士が見つめていました。

彼はその間、ずっと無言でした。

 

 

熱風が、辺りに渦巻いて、その場を高温にしてゆきます。

 

 

博士の額からこめかみ、頰へと、汗が伝います。それはやがて顎の先端まで達すると、粒となって地面に落ちました。

 

 

瓦礫の山。

廃墟となった家々。

燃え盛る炎。

 

 

 

無数の蝶たち🦋が、空へと舞い上がっていくように見えます。でもそれは、彼の目にそう映っただけであり、実際のところ、それは煤や火の粉でした。

 

 

 

ジンジャーナ博士は、壁のように眼前に立ち塞がる火柱越しに、娘さんをじっと、見据えました。

 

彼女が振り返ります。

 

 

 

 

揺れ動く赤や黄色やオレンジ色の大海の中で、両者は、互いに、強い眼差しを絡め合いました。

 

 

 

 

やがて娘さんは、疲れきったような、悟りきったような、優しい目を向けてきました。

 

 

 

 

 

 

彼女は、にっこりと笑いました。

 

 

 

 

 

 

その直後、彼女は身体を捻るようにして反転させたかと思うと、向こう側へ振り返りながら、直立姿勢になりました。

 

 

 

 

 

博士が怪訝に思う間も無く、娘さんはその場に倒れてしまいました。

一瞬の出来事でした。

 

 

彼が大声で叫びます。

 

 

 

 

 

 

 

「カンニャ!」

 

 

 

 

 

 

 

博士は猛然と、走り出します。

 

あ、申し遅れましたけれど、娘さんの正式な名前は、「カンニャ・イロジロ・ハ・ダ・ジンジャーナ」といいます。

 

この期に及んで、まだ、彼女は真っ白いドレスに身を包んでいます••••••いや、あのね、そういう設定なんですよ(笑)。

 

ま、でも、非常時だったので、仕方ないですよね。着の身着のままで家から出てきたわけですから。

 

 

それで、二人の母国であるジンジャー共和国においては、彼女たちは南方系に属する民族であるので、喋る言葉が「南部訛り」になっているんですね(笑)。

そのため、博士は、「ニャ」って言えないんですよ(笑)。

「ナ」になっちゃうんです(笑)。

あたかも英語圏の人が、「ショウユ(醤油)」とは言えずに、「ソイ」ってなっちゃうかのようにね。

それと同様にですね、博士もですね、「ニャ」が「ナ」と発音される、っていう。

ただ、本名のほうが、もともとはそのような設定になっていますので、一応、表記上は「ニャ」とされている点にご注意ください。ハイ。

 

 

 

 

さて、そんなわけで、ジンジャーナ博士はカンニャのもとへ駆けつけようとするんですけれどね。

彼が走り出した直後に、戦闘機が機関銃をぶっ放し、ついさっきまで彼がいた場所を撃ち貫きました。

 

🗯🗯🗯、🗯🗯🗯•••

 

全力疾走している彼の後ろにぴったりと伴走する影みたいに、弾の命中痕が、等間隔で、次々と、地面に刻まれていきます。

 

🗯🗯🗯、🗯🗯🗯、🗯🗯🗯•••

 

それは執拗に、追いかけてきます。

 

 

博士は信じられないようなハイ・スピードで荒野を横切っていきます。まるで無人の野を駆けるがごとく。

 

 

一定距離を一定時間、走り抜いたのち、彼はカンニャの横たわっている場所に着きました。

 

 

彼女は、まだ気を失っています。

 

 

息もきれぎれ、博士は彼女の顔を見おろしました。

 

 

 

「カンニャ••••。」

 

 

 

先程の空軍機が、Uタ-ンして、舞い戻ってきます。

それは、唸り声のような音を立てて、彼らの近くへ迫ってきます。

 

博士は振り返って、空を見上げました。

 

 

コクピットのガラスの向こうに、操縦士の顔が見えます。ゴ-グル越しに、そのニヤリとした目付きが見て取れました。

 

 

博士は、もはやこれまでか、と覚悟しました。

 

 

パイロットは、機関銃の発射レバーに手を掛けました。

 

 

 

 

博士はカンニャを胸に抱きかかえました。

 

 

 

 

敵機の後方から、一筋の閃光⚡️が、下から上へ向かって伸びていくのが、見えました。

 

 

 

💥💥💥

💥💥💥

💥💥💥

 

 

 

 

 

 

🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥

 

 

 

 

敵機が、炎に包まれながら、落下していきます。

 

 

大きな音を響かせ、それは地上に激突しました。

 

 

 

 

 

 

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墜落地点から、放射状に、爆風と熱風が走ってゆきます。

 

 

 

 

博士の腕の中で、後頭部を真下に向けながら瞳を閉じているカンニャの、長い黒髪が、風に煽られて、波打ちました。

 

 

 

 

 

 

博士は、閃光の発せられた方角を見遣りました。

 

 

「対空砲••••!」

 

 

 

どうやら、対空国防隊“ハイ・ビスカス”が出動したらしいです。

 

街の至る所から、対空砲火の稲光⚡️が、上空目掛けて、放たれていきます。

 

 

 

ジンジャー空軍も、遅ればせながら、駆け付けてきました。

 

 

 

両軍入り乱れての、機関銃の撃ち合いが始まりました。

 

 

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💭💭💭💭💭💭💭💭💭💭💭💭💭

 

 

 

 

 

 

 

🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥🔥

 

 

 

 

 

 

両者の間で、まるでわらべ歌における攻防戦のように、銃撃の応酬が続きます。

 

 

 

 

 

一進一退の、手に汗握る展開。

 

 

 

 

 

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カンニャを胸に抱きながら、ジンジャーナ博士は、逃げるなら今しかない、と思いました。

 

 

 

 

博士は、彼女を背中に背負いました。

カンニャを、抱っこから、おんぶへと、体勢チェンジし、走る気まんまんの心持ちになりました。

でも、また抱っこしたくなり、彼女の身体を彼の前半身のほうへ持っていきかけたのだけれど、敵の追撃から逃れやすいとの理由から、思い直し、体勢を再々チェンジするため、もう一度、おんぶしました。

でも、すぐさま翻意して、抱っこするべく、彼女の身体を前と後ろとで入れ替えようとして途中まで動かしてはみたものの、それを断念して再翻意し、やっぱり、おんぶしたのでした。

 

カンニャが瞼を開けます。

 

 

 

 

 

 

「どっちなん!」

 

 

 

 

 

 

彼女はそう言って、博士の首に後ろから左腕を回してきて固定し、右腕でそれを外側から押さえ付けたのでした。

 

 

 

 

博士は、うぐぐ、と呻きながら、苦しそうに目を瞑ります。

 

 

 

「き••••気がついたのか!」

 

 

 

彼の言葉の語尾が完成しないうちに、カンニャは右腕で遠方を指差しました。

 

 

 

 

「あそこに森が見えるよ。•••••パパ、あの森へ行きましょう!」

 

 

 

 

 

彼女を背中に背負ったまま、博士は、スクワットの要領で、下半身を使って、カンニャを上下にゆっさゆっさと揺り動かします。

 

 

 

 

「森の中に隠れたって無駄だよ。••••敵はおそらく、最新式の監視レ-ダ-で、すぐに私たちを見つけ出してしまうだろう。」

 

 

 

 

 

彼から繰り出される反復運動に身を任せながら、カンニャは、首をかっくんかっくんさせています。

 

 

 

 

 

 

「そ、そうじゃ•••な、な、ないの。も、森•••も、森、森の中な•••、なら、••••••••ていうか、喋りづらいよ!•••喋らせてよ!」

 

 

 

 

 

 

彼女は、博士の肩や背中を、手でバシバシと叩きました。

 

 

 

 

 

 

ジンジャーナ博士は、カンニャを背中から地面へと下ろし、くるっ、と半転して、彼女の両肩に左右の手を添えました。

 

 

 

 

「言ってごらん。」

 

 

 

 

 

カンニャは、博士の瞳を見つめます。

 

 

 

 

 

「隠れるんじゃあないの。森の中なら、神社⛩があるかもしれないでしょ••••?」

 

 

 

 

 

 

ジンジャーナ博士は、視線をカンニャの瞳に合わせたまま、両眼を大きく見開きました。

 

 

 

 

「••••鎮守の森か!」

 

 

 

 

カンニャは頷きました。

 

 

 

 

 

 

 

彼女たちは周囲を見回しました。

 

 

 

 

 

二人がいる場所からすぐ近くにある白亜の廃墟の、白壁や白塀で囲まれた中庭の一角に、花壇があるのが見えます。

 

 

そこに白百合の花が十数本、咲いていました。

 

 

 

 

それは、ジンジャーナ博士の目には、カンニャの白いドレスに施された透かし模様の花柄と、綺麗にシンクロして映りました。

 

 

 

 

彼女の背後に、それらの華やぎが、違和感なく添えられています。

 

 

 

 

 

 

 

あたかもそれは、それがそういう思想であるかのごとく、強烈なインパクトを見る者に与えているようにも感じられるのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絶望の中にあっても、それらは繁茂する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんて逞しいのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんて美しいのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

博士は、この素敵で眩しい景色を、邪悪な者たちにこれ以上穢されたくない、と強く思ったのでした。

 

 

 

彼は徐に、カンニャの面前に、手を差し伸べます。

 

 

 

 

 

 

「行こう。きっとそこに神社⛩があるはずだ。既に敵のゲリラ部隊が入り込んでいるかもしれないけれど、私たちが一足先に参内してしまおう!」

 

 

 

 

 

 

 

カンニャは頷きながら、差し出された博士の右手に、自分の左手を重ね合わせました。

 

 

 

 

博士は、それを力強く握り締めました。

 

 

 

 

 

 

森へ向かって、二人が駆け出していきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

“ハイ・ビスカス”の隊員たちが、遠くから、こちらに向かって、思い思いに、手を振ったり👋、グー・サイン👍を掲げたりしてきます。

 

 

砲撃音や着弾音などで声は聴こえてこないけれど、彼らの身動きの様子からすると、どうやらジンジャーナ博士とカンニャの両人に声援を送ってくれているみたいです。

 

 

 

 

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走りながら、二人は顔を見合わせ、微笑みました。

 

 

 

 

 

 

彼らの向かう先に、高くそびえ立つ、森の木々のシルエットが見えます。

それらはまるで、スペインの聖家族教会『サグラダ・ファミリア』の尖塔群みたいに、ダイナミックに、空へと伸びています。

形状から察すると、それは杉の木が大半であると思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♪ シルエ〜ッ、トォ〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すいません、急に挿入しちゃいました(笑)。

 

 

 

ところでね、なぜカンニャが森を目指すことを博士に提案したかといいますとね。

シルエットなんですよね。

木のね。

鎮守の森って、周りに湛えているのが、大抵、杉林じゃないですか。

で、それって、独特の雰囲気を醸し出していて、いかにも静謐で、荘厳で、神様が鎮座ましますような、霊験あらたかな感じがしたりしますよね。

 

 

カンニャが感じたのは、まさにそこなんですよね、身体の奥深いところでね。

 

 

それで、そっち行きを決断したというわけなのです。

 

 

 

 

 

さて、そういうわけでございまして、“ハイ・ビスカス”の援護射撃に見守られる中、二人は、やがて、森の入り口まで(無事に)辿り着くことができたのでした。

 

 

♪ パフ、パフ〜!

 

 

 

 

 

 

二人は、そこで立ち止まりました。

 

 

広大な杉の樹海が、果てしなく、続いています。

 

 

 

 

 

鬱蒼とした、霊的世界。

 

 

 

 

 

 

 

外界に比べて気温が低いのでしょう、空気がひんやりとしているように感じられます。

 

 

 

森の上半分が濃いモスグリーン色の枝葉に覆い尽くされているため、空からの陽の光が遮られ、辺りは薄暗くなっています。

 

 

 

 

 

鳩や雀、鶯などの鳴き声が聴こえてきます。

 

 

 

 

 

 

人の気配は、感じられません。

 

 

 

 

 

 

カンニャは、ジンジャーナ博士の腕に、自身の両腕を絡めました。

そして、今度は、彼の肩に、自身の顔を乗せるべく、ゆっくり首を傾けていきました。

でも、すぐに面をあげました。

 

 

 

「••••••あれは、何かしら?」

 

 

 

 

彼女の声と視線に促されて、博士は前方を見遣りました。

 

 

 

木々の幹の間から、建物らしきものが見えます。

なにやら、それは、和風な感じの佇まいに思えます。

 

 

博士は、首を横に振りました。

 

 

 

 

「あれは、K光教さんだよ。」

 

 

 

 

カンニャは、その言葉を聞くと、残念そうな面持ちになり、そのまま、博士の肩に、自身のおでこを埋めていきました。

 

 

 

 

やや強い風が、真正面から、吹いてきます。

 

 

それに揺られて、杉の葉が、ざわざわと音を立てます。

 

 

 

 

さらにその上空から、戦闘機のものと思しき飛行音が聴こえてきます。

 

 

 

 

 

二人は、急ぎ足で、森の深部へと進んでゆきます。

 

 

 

 

程なくして、少し樹高の低い木々が集まる一帯に出ました。

 

 

 

 

 

カンニャが、足を止めました。

 

 

「パパ、あれは••••••?」

 

 

ジンジャーナ博士は、そちらへ目を遣り、その後、視線をカンニャのほうへ移し、首を横に振りました。

 

 

「あれはね、T理教さんの教会だよ。」

 

 

カンニャは、両眉と両目を、目尻側から下げた表情をしながら、さらにその先のほうを指差しました。

 

 

「じゃあ、あそこにあるのは•••••?」

 

 

 

博士は、両手のひらを上へ向けた姿勢で、首を竦めました。

 

 

 

「あれは、S価学会さんだよ。」

 

 

 

カンニャは、両手で頭を抱えながら、その場にしゃがみ込んでしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

「どうして、どうして•••••••、J社さん⛩が無いの?!」

 

 

 

 

 

ジンジャーナ博士は、彼女の片腕を掴んで、身体ごと引っ張り上げました。

 

 

「べつに、神社⛩まで伏せ字にしなくていいから!」

 

 

そう指摘されると、カンニャは、博士の顔を見つめつつ、自分がボケたのに、青天の霹靂みたいな表情をしてみせたのでした。

 

 

 

 

 

まあ、基本ですよね(笑)。

 

さすが、よく押さえているな、っていう(笑)。

 

 

 

博士は、それで、カンニャの腕を、勢いよく引き寄せ、自分の胸をクッション代わりにして彼女の上半身を軽くぶつけさせ、反跳力によってそれが離れるよりも先に、左右の腕で、彼女の身体を、がばぅあぁぁ〜っ、と覆いました。

つまり、力学的な解説をするなら、カンニャの背中の方向には慣性の法則による後退力が生じて、一方、彼女の顔や胸の方向には、抱え込みによる前進力が、さらに大きな力で、発生したことになります。

すると、両方の力が順次、作用したため、彼女の身体の中心部に、強い刺激が加わったことが考えられます。

 

 

出口を失った大量のエネルギーが、カンニャの身体の中で、瞬時に、ジグザグに、でたらめ方向に、行き交ったのです。

 

 

 

そのためでありましょう、カンニャは、(ほんの、ほんの一瞬だけど)、このままこうしていたい、と思ってしまったのでした。

 

 

ところが、ジンジャーナ博士は、間が悪いんだかなんなんだか判りませんけれど、彼女の両腕(二の腕のあたり)を外側から押さえ込んで、その瞳をじっと見据えたのでした。

 

 

 

 

「先を急ごう。」

 

 

 

 

 

カンニャは、垂れ目を、歪んだような半開きの形にし、瞬きを断続的に繰り返しながら、への字口の唇💋を、コミカルに、ぴくぴくさせたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ま、基本ですよね(笑)。

 

 

 

 

カンニャは、ななな何それ、と思って、それを顔芸で表現したというわけですね。

 

 

 

 

ジンジャーナ博士が、もっとムフフなことを考えているとも知らずに••••••••。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、それでですね、とりあえず、二人は、森の更なる奥地へ向かって、歩き始めました。

 

 

 

 

薄暗い樹々の、黒や茶色やグレーをした、幹のシルエットが、無数に、見渡す限り、連なっています。

 

 

 

 

 

鶯たちが、口々に、導入的なさえずりから入り、音を溜めるかのように、一旦、間を作っていきます。

 

 

 

 

 

 

 

ホォ〜•••••

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、締めに、それほど空白を引っ張らずに、“決め”の、大きな声を発します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホケキョ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カンニャが、鳴き声に合わせて、右拳を腰に宛てがい左手で指差しチェックのポ-ズを作りました。

 

 

 

 

 

ジンジャーナ博士が、それを見て、恥ずかしそうに、俯きます。

 

 

 

 

 

 

カンニャは、博士の顔を見ながら、何も言いませんでした。ただニヤニヤしています。

 

 

 

 

博士には、カンニャのその態度が、さらに追い込みをかける効果があるようでした。テンションが少しおかしかったからです。

 

 

 

 

「タイミング、完璧だったぞ!」

 

 

 

 

 

 

鶯が、畳み掛けてきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホケキョキョキョ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カンニャは、当然のごとく、左手の人差し指を使って、「キョキョキョ」の部分に拍子を合わせ、小さく3回、スイングしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

頰を赤らめつつ、ジンジャーナ博士は、もう、どうしていいか解らず、あべこべに、左手の人差し指で、小さく3回スイングしたのでした。

 

視線の定まらない、焦ったような笑顔で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鶯が、まるで快楽犯みたいに、鳴き声を発してきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

ホケキョ、ケキョ!

 

 

ホォ〜•••

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホケキョ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カンニャと博士は、二人揃って、右拳を腰に宛てがい左手で指差しポ-ズを作って2回スイングし、その後さらに、左右の手をチェンジしたうえで、指差しポ-ズで2回スイングしました。

 

 

 

 

博士も、まんざらでもなさそうやん、っていうね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続きは、また今度。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記事を未完のままアップする暴挙(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

海へ行くつもりじゃなかった

  最近、私はブログを書くうえで、パフォーマンス効率が下がってきていると感じているし、実際も(残念ながら)そうなってしまっています。

  かつても述べたように、記事を書きたいという気持ちがないわけではないし、ネタがないわけでもありません。むしろ、それらは山ほどあります。スマホやパソコンなどの発信ツ-ルも、ちゃんとあります。

  では、なぜ、パフォーマンスしにくくなりつつあるのでしょうか?

  その理由は、環境にあります。

  現在、私は、それを行うに相応しい環境下にいません。なかなかそれを理想的な方向へと変えていけていません。

  それゆえ、何らかの対策を講じることで、そうした環境を整える必要があるのです。

  しかし、自分一人の力だけでは、そろそろ限界に来ているということもまた、感じ始めています。

  そこで、かつての旧友ラインを通じて、或る友達の家族筋のかたに協力を要請してみることにしました。環境づくりのためのね。

  そのかたの事務所は、とある海辺の街にありました。そこには何度もお邪魔させていただいたことがありました。昔ね。

  私はこの春、そこを久しぶりに訪ねてみました。しかし、移転したのか、それとも事務所を畳んだのか判りませんけれど、いずれにせよ、そこには別のテナントが入っていたのでした。

 

 

  私はそこから歩いて十数分くらいのところにある海岸へ行きました。

 

 

  自然と足がそちらへ向かっていました。

 

  砂浜に腰掛けて、しばらく、海を眺めていました。

  独り、潮風を前身に浴びながら、ただ、物思いに耽っていました。

 

  数十分間、そうしていました。

 

 

 

  すると、ふと、アイデアが浮かんできたのでした。

 

 

 

  のちに、私はそれを実行することに・・・。

 

  嘘だと思うかたがいらっしゃるかもしれないし、ひょっとしたら、不愉快に感じられるかたもいらっしゃるかもしれません。

  それでも、その時は、まるで鷹が急降下して獲物を捕らえるかのように、それは頭の中に閃めいたのでした。

  それは、必ずしも、自分のスマホやパソコンからブログ記事を執筆しなきゃならないわけではない、というものでした。ブログやSNSなどのIT面での発信ライン・発信環境といったものは、維持・運営を人任せにしたっていいんだ、と。

 

  そうすれば、一切の障害を気にすることなく、心おきなく、パフォーマンスしてゆけるのではないかと、思うに至ったのでした。

 

 

  私は、そうであるがゆえに、私設秘書を雇うことにしたのです。

 

 

  まるでタレントさんが芸能プロダクションと契約を結び、マネジメントを委託するかのように、私も、自身のパフォーマンスをIT面から支えてくださり、バックアップしてくださって、ときには、私生活上も相談に乗ってくださり、話し相手にもなりうるような、そんな優秀で、信頼できるかたに、マネジメントを依頼することにしたのでした。ポケットマネーでね。

 

  どうせなら美人秘書がいいだろう、と思って、引退した元アイドルの女性に交渉し、来ていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  嘘です(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  不愉快ですよね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  エイプリルフールはもう終わったってのに(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

  申し訳ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  でも、半ば、本当なんですよ。

 

 

 

 

 

  パフォーマンス環境をいままで以上に整えなきゃならないのは事実だし、それを実行するには自分一人の力だけでは難しいということもまた、紛れもない事実なのです。

 

  だから、いずれ近いうちに、新たな行動を起こさねばならないというのは、嘘じゃあないんです。

 

  そうしないと、論文も書けないし、小説も書けないし、絵も描けませんからね。

 

  私は、だから、そうするつもりなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*************************

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  それに向けて頑張っていこうと心に決め、私はその日、砂浜をあとにしたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

🌷

 どうも。橋本順一です。

 

 いま、ちょっと、アレなんで、

また後で、改めて、ゆっくりブログを書きたいと思います。

 

 

 

 それでは、よろしくお願いします。

 

 

思想・良心の自由と表現の自由

 憲法上、私たちには各種の自由が与えられています。

 その中でいちばん制約のレベルが少ない、というか無制限のものがあります。それは、思想・良心の自由(19条)です。個人が、頭の中で何を考えようと、OKなのですね。どんなヘンなことやヤバいことだったとしても、すべて許されます。

 ところが、それが頭の外に出てくると、それは「表現」という扱いになります。その人は、頭の中の考えを外部へ表明した、すなわち「表現」した、ということになるのです。「表現の自由」は憲法21条で保障されているのだけれど、絶対無制限というわけではなく、法(もしくは公権力)からの縛りを受けます。完全な自由というわけではないんですね。つまり、合理的な理由があるなら、規制を受けることになるのです。

 昔、小泉純一郎元総理が、終戦記念日靖国神社を参拝して批判されたことがありましたけど、その時彼は、「私の思想・良心の自由に対してとやかく言うな!」と弁明していたのだけれど、それ、じつは「表現」していることになるんですよね。頭の中にだけとどめておいているなら「思想・良心」なんだけど、外部へ出しちゃってますからね。参拝というかたちでね。それは、彼の望みとは裏腹に、制約を受けうるのですね。

 

 さて、このように、自由というのは(原則として)制限を受けるものなのです。

 思想・良心の自由を除くあらゆる自由が、その対象になります。

 プライバシーの自由とかも、そうです。或る程度有名になると、公人としての立場から、一般人とは異なるレベルの規制を受けることもあるのです。もっとも、私のよく知っている人の中には、まったく無名の一般人であるにもかかわらず、制限だらけ、みたいな人もいますけどね。

 

 表現の自由も、合理的な理由に基づいて、制限されることがあります。

 

 完全な自由というわけではないんです。残念ながらね。

 

 芸術・芸能の世界でも、それは当てはまります。

 なんでもかんでも表現すればいいというわけでもないんですね。

 

 だから、私の愛する美的モデル、美の描き方も、必ずしも人々に好意的に受け入れられるとは限らないのですね。

 

 たとえば、物語の中で美少女を描くという場合に、私特有の、耽美主義とかロマンチシズム、或るいは生物学的な「ご褒美理論」に合致するような表現が、好まれる場合はいいのだけれど、そうでない場合もある、ということです。

 つまり、制約を受けているのですね。

 一方で、いわゆる“女優魂”といったものも、映像の世界では重んじられることがあります。あたかも芸能生命を懸けるかのごとき、女を捨てたかのような、体当たりの演技をしてみせ、観客や視聴者から喝采を浴びる役者さんもいらっしゃいますよね。

 記憶に新しいところでは、映画『銀魂』で神楽役を演じた橋本環奈さんの事例があります。彼女が、白目を剥きながら鼻をほじる場面は、話題になりましたよね。それに対しては、高く評価する声が多かったように思います。“女優魂”だ、と。

 また夏に『銀魂2』が公開されるらしいですけれど、さらにパワーアップしたパフォーマンスが作中で繰り広げられるのではないかと、多方面から期待されているようですね。再び彼女の“女優魂”を見れるのでは、とね。

 役者さんたちの熱演によって素晴らしい作品が出来上がるのは喜ばしいことだと思います。

 ただ、“女優魂”という言い回しはとても便利な言葉であって、何か極端な表現や演技をした場合の、受け入れられるためのエクスキューズになり得るものであるような気も、一方でしてしまうんですよね。

 たしかに、女優さん一人ひとりの心の中にある表現への飽くなき向上心、探究心は、絶対的なものであり、不可侵のものです。或るいは、監督さんをはじめとした製作陣の頭の中にある理想の表現、表現欲求といったものについても、それは絶対的な保護の対象となります。なぜなら、それは思想・良心の自由だからです。

 しかし、それを外部へと表わしたならば、今度はそれは「表現」という扱いになるのであって、完全無制約というわけにはいきません。

 

 “女優魂”も、絶対無制約というわけではありません。 

 

 「表現」であるからには、より良いものへと磨きあげるためにも、修正のための各種の制約がかけられることが必要な場合もあるのですね(もちろん、不当な、厳しすぎる制限は許されませんけど)。

 

 “女優魂”は、合理性ある制限ならば、それを受け入れることで、最大限の魅力に繋がります。私は、そう思うのです。詳しくは、過去記事(『ギャップ』『浮気、いやらしさ、愛』)をご参照いただければ幸いです。

 

 表現者も、一人の人間です。

 

 俳優・女優という以前に、一人の人間なわけです。

 

 そうであるなら、生物学的なミッションの面から、縛りを受ける運命にあるのではないでしょうか。

 女優さんも一人の女性である以上、どうしても、そのミッションたる「子孫の繁栄」および、そこから派生してくる「ご褒美性」といった概念を疎かにはできないような気が、私にはしてしまうのですね。

 

 要するに何が言いたいかっていうと、たとえ仕事であれ、“女優魂”の発露であれ、その人の「ご褒美性」を低下させてしまうような演技・表現は、一人の女性としてみた場合、必ずしも望ましいものではない、ということです。

 

 また話を橋本環奈さんのケースに戻しますけれど、彼女は、世界最高峰の美形といえる器であり、いずれ国外へと飛び出して、ワールドワイドに活躍するようになるでしょう。彼女はそれほどまでの逸材だと思います。

 映画の製作陣の方々、並びに橋本環奈さんの所属事務所の方々にとっては、私の申し上げることは、今さら“釈迦に説法”だとは思いますけれど、彼女の社会的役割を考えるなら、やはり広い世界へと羽ばたいていくような方向性でもってマネジメントしていくべきなのではないでしょうか。

 それだけに、『銀魂』での例のシーンは、残念に思えてきてしまうのです。

 日本随一の美少女の使い方として、ああいう演出はいかがなものか、と感じてしまうんですよ。これは、直感です。

 当時まだ現役高校生の、嫁入り前の、17歳の娘さん••••••あ、今日は橋本環奈さんの19歳のお誕生日らしいですね、え~と、おめでとうございます、それで、その、17歳の女の子にあのようなことをさせて、それを見てヘラヘラと笑っているという価値観が、私には判らないんですよねぇ。

 

 だから、もう、そういうのは、いいんじゃないんですか。

 

 工藤静香さんだって、リリース当初、『嵐の素顔』のあの印象的な振り付けが話題になりましたけれど、もう歌番組に出ても、それをやらなくなったじゃないですか。

 表現、パフォーマンスというのは、状況に応じて変化していくものでもあるんですよね。ずっと同じじゃなくてもいいのです。

 

 それはいわば、状況の変化という名の制約を受けた、ってことだと思います。

 

 

  それと同様に、“女優魂”も、「ご褒美性」の見地から、そして、その人の持つ器や社会的使命などの観点から、制約を受けるものである、との結論が導かれてくるのです。

 

 

 “女優魂”は「表現の自由」なのであり、「思想・良心の自由」ではない。そうであるがゆえに、修正を受けるものとなっているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

運命の赤い糸

 信じることの対象は、「目に見える世界」と「目に見えない世界」の両方です。

 

 

 「目に見える世界」というのは、ご存じ物質世界、物理的世界のことです、我々が暮らしている、このね。

 「目に見えない世界」というのは、物と物の間の関係性や、人と人の間の関係性を指します(つまりはエネルギーを指します)。

 

 

 私たちは、その両方の世界を材料として、「現実」の世界像を形成するチャンスを与えられています(ただ、残念なことに、多くの人は「目に見える世界」しか材料に用いません)。

 

 

 

 じつは、成功や幸せ、豊かさといったものは、我々のすぐ目の前にあり、手を伸ばせば届く状態になっています。

 

 

 

 しかし、(私もそうでしたけれど)多くの人はそのことを信じないために、それに向かって手を伸ばそうとはしません。

 

 なぜ、手を伸ばそうとしないのでしょうか?

 

 

 

 

 

 目の前の世界が歪んで見えているから。

 

 

 

 

 

 この世のメカニズムは、「想い」が「現実」を形成するような仕組みになっています。

 

 

 それゆえ、信じないと、歪んだ世界像しか形成できないことになってしまうのですね。

 

 

 なぜなら、材料(エネルギー)が乏しいからです。

 

 「信じない」ということはどういうことかっていうと、それは、有用な、素晴らしい素材を「活用しない」、「採用しない」ということに通じています。

 つまり、エネルギー(物体相互間の関係性)を(目に見えないからという理由で)材料として用いない、ってことなんですよ。

 

 それゆえ、世界像を作るための材料が乏しくなってしまい、いびつな、不完全な現実世界が形成されてしまう羽目になるのですね。

 

 そのような世界は、どんよりと曇り、歪んで見える世界です。それを眺めていたって、幸せにもなれないし、元気にもなれないですよね。

 

 

 せっかく作るのであれば、見ていて元気になれる世界のほうがいいですよね!

 

 

 材料をふんだんに用い、時間をたっぷり掛けて、情熱を注ぎ込んで作り上げた世界像は、バランスが整っていて、美しくて、キラキラと輝いて見えるのです。

 

 

 

 

 見ていて元気が出たり、幸せな気分に浸れたりしてくるんですよ!

 

 

 

 

 

 人生も芸術(創作活動)も、同じ。

 

 

 

 作り手がエネルギーに満ち溢れているか否かで、すべてが決まります。

 

 

 それは、「想い」の力が大きいか小さいかによって、エネルギーを世界像形成のための材料に加えることができるか否かが、決まってくるのです。

 

 

 

 強い「想い」が、「信じる気持ち」が、素晴らしい「現実」を作るのです。

 

 

 そういったものは目には見えないけれど、あたかも「時間」がこの世に確かなものとして存在しているのと同様に、まるで“運命の赤い糸”みたいに、この世界の各構成員相互間に確かに存在し、互いをしっかりと繋いでくれているのです。

 

 言っている意味、判りますよね?

 時間って、目には見えないけれど、ある・なしでいえば、ありますよね。つまり、ちゃんと存在しているってことですよね。

 それと同様にですね、想いとか心とか、人と人との結びつき、関係性といったものも、目には見えないじゃないですか。でも、それは“運命の赤い糸”と擬態できるほどの、確かな存在であるといえるのですね。ちゃんと、それらは、私たちの暮らすこの世界の身近なところに、存在している、ってことなんですよ。

 

 

 その意味で、そうした仕組みがあることは、決定論・運命論がカバーするメカニズムであるといえましょう。

 

 

 

 

 

 

 “運命の赤い糸”を信じられるかどうかで、幸せになれるかなれないかが、決まってくるのです。

 

 

 

 

彼女は純愛を抑えきれない

 
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  最近、少し考え方が変わってきて、私は、100%の運命論に、一部、修正を施しました。それが、前回のブログ記事です。

 

 どういうものかといいますと、人の「想い」が「現実」を変えうる、との考え方です。

 詳しい説明は前回行いましたので、割愛させていただきますけれど、要するに、次のようなものです。

 

 万物は流転する。

 ゆえに、「現実」も揺れ動く。

 人の「想い」はその影響を受け、やはり揺れ動く。

 その一方で、「現実」もまた、人の「想い」に影響されて、変化してゆく。

 

 以上のような感じです。

 

 


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 100%の運命論は、人の運命は、生まれてくる時代、国、地域や、顔、性格、能力、そして家族や友人や恋人との関わり、職業、さらには健康や寿命に至るまで、予め、数百億年、数千億年も前から、すべて決められている、とする考え方です(決定論)。

 ここでは、人の意思が介入する余地はなく、運命は人間の手によってでは一切動かせない、としています。

 私はずっとこの立場だったのですけれど、少し修正し、「想い」の力によって「現実」を変えることは(或る程度)可能である、と考えるようになりました。

 

 



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 なんか、女性エッセイとかの装丁写真っぽい載せ方になってきましたね(笑)。

 

 

 

 

 さて、それはいいとして、続きに参りましょうか。

 100%の運命論って、じつは、やや窮屈に感じていた部分もあったんですよ。何か未来への見通しが、あまり良くないっていうか、空気としてというか、流れとして、行き詰まっているっぽい時って、あるじゃないですか。 

 そういう場合、100%の運命論に立っちゃうと、「運命は決まっているんだ」、「自分の力では好転させることはできないんだ」という気持ちが強くなってきてしまうがゆえに、ちょっと気分的に沈んでしまうこともありうるわけです。

 

 


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 ところが、それを修正してですね、「現実」はもともと揺れ動くものなんだ、そういう性質があるんだ、だから自分が強い「想い」を持ち続けることで「現実」を変えうるんだ!・・・と考えたならね、とても気が楽になったんですよね。

 

 これは私の中で、非常に大きな収穫だったように思います。

 

 

  現時点で与えられている材料から、(自分の狭っ苦しい了見で)未来を一方的に推測したとき、場合によっては暗く、重苦しい「現実」が待ち受けているような気が、したりしてしまうこともあります。

 

 でも、この新たな、修正した運命論でそうしたケースを考えるなら、「現実」はいくらでも揺れ動くんだ!、それも自分の「想い」の力によって!、って思えてくるから、不思議です。

 

 

 

 それはとても幸せなことだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここに載せた白百合の写真、じつは、昨年の11月直前に撮影したものなんですよ。

 その日、散歩中、道で見つけたものです。

 

 綺麗に、咲いていました。

 

 めっちゃ季節外れですよね。

 

 

 

 

 

 でも、「現実」に、こういうことが起こるわけですよ。

 

 

 起こらないなんて、決めつけられないのです。

 

 

 

 

 

 未来は、何が起こるか判りません。

 

 

 

 

 

 そうであるなら、前向きな、良い未来だけを、信じて待ちたいものですよね。

 

 

 

 

 恋愛小説・ドラマとかもそうですよね。

 

 

 

 

 

 最後まで、どうなるか判らないじゃないですか。

 

 

 

 

 私自身、小説を書いたとき、ストーリーやプロット、場面描写、登場人物の名前・キャラクターさえも、途中でどんどん変更していきましたもん、随時ね。

 

 

 

 

 

 

 

 より良いものを生み出すために、そうした努力が必要なのです。

 

 

 

 

 

 

 恋する美少女は、きっとこういう気持ちになり、こういう言葉を喋り、こういう態度を取るだろうな、っていう感じで。

 

 

 

 

 

 彼女はこんな時、きっと好きな男性への愛をこう貫くだろうな、みたいに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 逆に、こういうことは言わないだろうな、こういうことは絶対にやらないだろうな、というふうにも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人生や日常生活、運命も、それと同様だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは「想い」によって変えられるのです。