橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

銃と統治機構

 アメリカは、「小さい政府」だといわれていますよね。すなわち、議会などの立法府、警察などの行政府における成員数が少ないタイプの統治システムに基づいた国家である、ということですね。

 

 さて、それでね。

 思うんですけれどね。

 アメリカは、銃社会ですよね。なぜ銃社会なのかというと、それはたぶん、政府を「小さ」くしたぶん、支配力が弱まり、それを銃という(パーソナルな)武力で肩代わりしているから、そうなっているものと考えられます。

 日本は、銃社会じゃありませんよね。でも、「行政国家現象」と呼ばれているくらい、行政権の比重が大きい社会ですよね。いってみりゃ、「大きい政府」ですよね。

 「大きい政府」だからこそ、国民一人ひとりが銃を持たなくて済んでいる、ともいえるんじゃないでしょうか。

 

 しかし、だからといって、それは喜ばしいことではないんですよね。

 国民相互の信頼関係が乏しいがゆえに、「大きい政府」の統治力・支配力に頼らざるをえない状況になってしまっている、とも考えられるからです。

 

 形こそ違え、アメリカも事情は同じです。

 

 人と人とが、信じ合っていない。

 

 だから、懐に銃を隠し持っている。

 

 それで、その銃にガードさせているぶんだけ、政府の負担が軽くなっているため、「小さい政府」で済んでいると思うんですよ。ただそれだけの話でしょう。

 

 

 でも、そうはいっても、「大きい政府」よりは「小さい政府」のほうが、まだ、ましなのです。

 

 政府なんてのは、小さいに越したことはないんです。

 大きい必要なんて、更々ありません。

 

 だから、国会議員の数も、公務員の数も、どんどん減らしてしまったほうが、(ホントは)いいんです(国会議員および公務員の皆さん、すみません)。

 

 

 はっきり言いますけれど、それらはもともと、あまり必要ないものなのですよ。  

 

 もちろん、銃も必要ありません。

 

 

 

 必要なのは、「信じる力」です。

 

 

 

 人と人とが信じ合える世の中こそが、真の平和な社会だと呼べるのです。

 

 

 戦争を放棄する平和憲法こそが人類の模範ともいうべき理想の形であり、世界の未来だといえるのに、それをわざわざ改正する(改悪する)ような動きになっちゃっているなら、世も末でありましょう。

 

 

 憲法は、いまのままでいい。

 

 

 憲法を変えるよりも、まずは本当のことを知ったほうがいい。

 

 

 

 

 いまの世の中(資本主義社会)が、いかに複雑であるかということを。

 

 

 

 

 そして、人と人とが信じ合えないのは、その複雑さのせいなんだ、ということを。

 

 

 

 

 

 それに関するテーマについては、今後また、別記事にて、詳しく述べてまいります。

 

 

 

 

 

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俺の名前は印籠あり、だ。

 子供の頃(小学校時代)、よく、TV番組の主題歌や台詞とかを、ラジカセの内蔵マイクでアナログ録音することがありました。 

 すなわち、番組がリアルタイムで放送されるときに、直接、ラジカセをTVのスピーカーの前まで持っていって、録音ボタンを、ガチャッ、ってやるわけですね。カセットテープをセットしてね。

 そうやって録音したものを、翌日、学校に持っていって、クラスメイトたちに聴かせるのが、妙に楽しいんですよね~。

 だから、よく夢中になって録っていました。

 

 それで、きれいに録音できるなら万事OKなんですけれど、けっこう、家族が邪魔してくるんですよ。

 あと、たまに、猫が鳴いたりして、その声が入っちゃったりもしました。

 

 たとえば、里見浩太朗さん主演の時代劇・『長七郎江戸日記』を録ったことがあったんですけれど、主人公の長七郎というのは、世にはびこる悪者たちを華麗な剣さばきで退治する正義のヒーローであり(二刀流の使い手です)、徳川家光江戸幕府3代将軍の座を巡って争い非業の死を遂げた、駿河大納言・松平忠長の遺児でもあるので、必ず、敵をやっつける前に自分の身分を明かさなきゃならないわけですよ。

 そのときの決め台詞があって、毎回それを言ってから敵を倒す、という流れになっているのですね。TV的にはね。

 

 

 「俺の名前は印籠あり、だ。迷わず地獄に墜ちるがよい。」

 

 

 そのタイミングで、うちの猫が可愛い声で鳴くんですよ。

 

 

 緊張感が無いったらありゃしない(笑)。

 

 

 でも、クラスの女子たちにウケたりしたので、それはそれでよかったんですけど(笑)。

 

 

 

 いま思えば、何かを編集したり、異なるイメージのもの同士を組み合わせたりして、新たな、意外性のあるものを生み出す面白さに、この頃からすでにハマっていたような気がします。

 

 

 お蔭で、安定というものには無縁の人生になってしまった部分もありますけれどね(笑)。

 

 

エレキ法師

 

 

 
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  盲目のギタリスト、“エレキ法師”。

 

 ちなみに、彼が使用しているギターは、テレキャスターです。

 レスポールとかよりは、こっちのほうが合うかな、と思いまして、このような設定になりました。

 

 

 

 

 

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 次回は、ドラム法師ですかね。

 

 いや、ベース法師かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、気が向いたら、ということですけれどね(笑)。

 

 

 

 

 

 

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純愛とは何か

 最近、SNSやブログ、或るいはネットのニュース記事などで、近況報告的な話題として、「本当の愛とは何かについて考えています」、というようなコメントを発する方々を、ちらほらとお見受けするようになった気がします。

 

 これは或る意味、人間にとって普遍的なテーマであり、且つ答えの見えにくい難問であるともいえましょう。

 人によって意見は様々でしょうし、同じ人でも経験や成長の度合いに応じてその中身が変化していく性質のものでもあると思われます。

 

 この点、私の考え方は、きわめてシンプルです。すなわちね。

 

 

 純愛とは、男女双方の魅力のレベルが釣り合っていることである。

 

 

 これですね。

 私は100%の運命論者なので、たとえば自分のパートナーとなる人は魅力の水準が自分と同レベルの人であり、同時に、その人はそのことを以って自分の“運命の人”である、という捉え方をすることになります。

 

 したがって、これはいわば神様が何百億年、或るいは何千億年も前から書き上げたシナリオなので、今さら人間の小ざかしいテクニックでどうこうできるものではないし、どうこうすべきものでもない、と見做すことになります。

 

 そうであるなら、蚊帳の外にいる人、或るいは魅力の不釣り合いな人が自分たちの間に立ち入ろうとしてきた場合には、(義務として)自分は二人の絆を守る必要があることになりましょう。

 

 これは、(私の感覚ですけれど)単に相手のことが好きだから相手を守りたいという理由だけにとどまらず、(生物学的な)自然界の掟に従いたいからその人のことを守りたい、ということでもあるような気がするんですよね。

 そして、それが端から見ると、いかにも「純愛」であるかのように受け止められる、ということなのではないでしょうか。

 

 ま、実際、そうなんでしょうけれど。

 

 

 

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「自分」

 答えは、「外」にあるのではなく、「内」にあるような気がします。

 

 グローバル化が叫ばれている時代ですけれど、答えは日本国内にある。じつは意外にそういうもののような気がするんですよね。

 

 世界史に目を向けると、かつて大航海時代に、西洋諸国は積極的にアジアやアフリカに進出し、植民地を増やしていったという事実があります。

 でも結局は、現地の人たちから反乱や独立運動を起こされて、現在では西洋は完全にノ一タッチになっていますよね。つまり、最終的には、植民地政策は無駄だったことになります。西洋人にとって、答えはそっちには無かったのだといえましょう。

 「外」へ見出そうとの試みは、失敗に終わったというわけですね。

 

 なぜ、失敗したのか?

 それは、答えは「内」にこそあり、そこを見つめるべきだったのに、「外」へ意識が向かってしまったからでありましょう。

 

 西洋人は、西洋にとどまってこその西洋人だったのです。

 

 でも、それは彼らだけにいえることではなく、東洋人、さらには我々日本人にとっても同様に当て該まることであると思います。

 

 日本人にとっての答えは、日本にこそあるのです。日本国内。

 答えは「外」ではなく、「内」にあるのであります。

 

 さて、それでね。

 同様のことが、宇宙開発についてもいえるでありましょう。すなわち、(夢の無いことを言ってしまって申し訳ありませんけれど)宇宙に積極的に出ていっても、そこには得るものがないと考えられるのですね。

 その理由を簡単に申し上げますと、宇宙では人間の体内時計が狂ってしまうと予想されるからです。とくに女性にその傾向が強いでしょう。

 詳しくは別記事もしくは学術論文などで述べたいと思いますけれど、要するに、地球人の体内リズムは地球環境でしか形成できないからなのです。そして、そのリズムは、その星の公転周期や自転周期、および衛星の個数や公転周期によって決まってくるものだと考えられます。

 そういったリズムは、惑星ごとに違ったものになっているため、地球人がもしも別の惑星に行けば、生物時計がメチャクチャに狂い、自律神経失調症鬱病、癌などを発症することが予想されるのですね。

 

 地球人は、地球にとどまってこその地球人なわけですね。

 

 答えは宇宙にではなく、地球上にこそ、あるのです(もちろん、宇宙を知ることでより地球への理解が深まることにも繋がるでしょうから、宇宙開発にもそれなりの意義はあると思われます)。

 

 「外」ではなく、「内」なのです。

 

 

 さて、そうであるならね。

 それは個人の幸せについても、同様のメカニズムが当て該まるものと思われます。

 

 答えは「自分」の中にある、ということ。

 

 社会とか他人といった「外」の部分に目を向けることも、ときには大切でしょうけれど、最終的な答えは、いつだって、「自分」の中にこそあるのであります。

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ミステリー

 最近、ちょっと、ミステリー小説を読み始めました。

 いま、『小鳥を愛した容疑者』(大倉崇裕先生著)を読ませていただいているところです。

 

 勉強のためです。自分もいま、じつは小説を書いております(過去記事でも何回か触れましたね)。

 それは、基本、(広義の)サスペンスの形態をとっています。すなわち、物語が、時系列に従って順繰りに進んでいく、みたいな、そんな形式になっているわけですね。

 でも、一部、ミステリーの手法を取り入れているところもあります。

 

 “謎解き”ですね。

 

 ミステリー小説というのは、一般的に、“謎解き小説”であるといえます。

 それは、どちらかというと、過去に遡って、関連人物たちの間に何があったのかを解き明かすことに主眼が置かれているといえましょう。

 読者は、そうした謎が明らかになる過程でカタルシスを得ることができるので、読んでいて面白いと感じるのだと思います。

 

 私の作品は、今回はその要素がちょっと控えめになっていて、サスペンス的なカタルシスだけで押し切ろうとしている節があるのだけれど、でも、大倉先生の小説は非常に勉強になりました。

 ミステリー部分以外においても、たとえば、容疑者の心理を描いた箇所が、お手本になると思いました。

 こう書けばそれっぽくなるなぁと感心させられましたね。

 

 まあ、今後、私がミステリー作品を複数回にわたって書いていくかどうかは、未知数ですけれど。

 

 私、寓意小説っぽい物語が好きだったりするんですよね(笑)。

 

 自分の生み出した作品が日の目を見れるように、いまは努力あるのみ、ですね。

 

 さて、それで、ちょっとそれに関連することなんですけれど、また、シンクロニシティーを経験しました。

 (過去記事にて詳しく紹介したことがありますけれど)それは、自分がいま考えたり取り組んだりしていることの内容と、たまたま目にしたメッセージや事実内容とが一致した場合は、その行いが正しいものであり、且つその先にある結果もうまくいく、ということの暗示であるのだそうです。

 それでね、大倉先生の小説を読んでいたらですね、私の小説の中でも紹介した、或る格言が、出てきたんですよ。何かといいますと、次のようなものです。

 

 

 「天網恢恢疎にして漏らさず」

 

 

 これですね。

 びっくりしました。

 

 さらに、以前にもご紹介したことがあるんですけれど、私の小説の中で、或る動物が出てくるシーンがあってですね、それが大倉先生の作品中の或る場面でも、不意に、登場したのでした。何かといいますとね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒猫。

 

 

 

 

 

 

 

 

 これですね。

 またまたびっくりです。

 

 シンクロニシティー!

 

 嬉しいですね。

 良いことがありそうな予感。

 

 ちなみに、大倉先生の小説は、渡部篤郎さんと橋本環奈さんの主演で、ドラマ化されたようですね。

 

 こちらも、たくさんの人の心に記憶として刻み込まれるような、素晴らしい映像作品になることをお祈り申し上げたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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美少女、天才、燃えるゴミ

 美少女のことを、まるで美少女ではないかのように、悪く言う人がいます。

 

 或るいは、天才のことを、まるで天才ではないかのように、悪く言う人がいます。

 

 でも、そうしたからといって、美少女が美少女でなくなるわけではないし、天才が天才でなくなるわけでもありません。

 

 それは、あたかも、不特定物を特定したからといって、特定物になるわけではない(あくまでも特定された不特定物であるにすぎない)、ということと同様であるし、或るいは、燃えるゴミを雨の降る日に出して水浸しにしたからといって、燃えないゴミになるわけではない(あくまでも水に濡れた燃えるゴミであるにすぎない)、ということと同様です。

  

 

 

 

 美少女は何があろうと美少女であり、天才は何があろうと天才であり、燃えるゴミは何があろうと燃えるゴミなのであります。