橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

🌷

 どうも。橋本順一です。

 

 幾つか、書きたいテーマがあり、それに加えて、ここ数日の個人の印象的な出来事が複数あったこともあり、ちょっと思考が込み入っている状態なので、ブログ記事を書けるかどうか判らないんですけれど、一応、書くだけは書いてみたいと思います。

 

 連続的か、それとも断続的かは判りませんけれど、やるだけは(後ほどに)やってみます。

 美術で喩えるなら、クロッキーみたいなものですね。

 

 

 というわけで、よろしくお願いします。

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世界の中心でロックンロールを叫ぶ

 

 

 ロケン•••

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ローーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!

 

 

 

 

  

 

 

 

 「ロックンロール」というのは、二つの単語を合成して出来た言葉であるらしいです。

 

 すなわち、「ロック」と「ロール」の2語を組み合わせて「Rock and Roll」としたうえで、短縮して「Rock’n Roll」というふうに統合したわけですね。

 

 それでですね、「Rock」の意味は「刺激する」、「Roll」の意味は「揺さぶる」、といったニュアンスで、それぞれ捉えられることが多いらしいです。

 

 しかし、統合すると、特にこれといった、具体的な意味はなくなるのだそうです(アメリカの場合)。

 

 たとえば、こんな感じに。

 

 

 

 

 

 

 「オラァァァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」

 

 とか、

 

 

 

 

 

 「行っけえぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

 

 とか、

 

 

 

 

 

 

 「乗ってけえぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

 

 

 とかいう具合いにね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ナイスバディは俺のもんだ。」

 とか(笑)。

 

 

 

 

 

 

 何でもいいわけですよ。とくに意味はありませんからね(笑)。

 

 

 ただ、現在では、アメリカでも若者たちはあんまりそういう言葉を使わなくなったらしいです。

 

 

 

 

 

 まさに、ロックンロールは死んだ、みたいな(笑)。

 

 

 

 まあ、あくまでも、アメリカの若者の間においては、ということですけれどね。

 

 

 

 

 でも、「板垣死すとも自由は死なず」じゃあないですけれど、たとえロックンロールが死のうが死ぬまいが、自分の好きなもの、信じるものを、世間や周りの人たちの考えとか評判といったことに関係なく、追い求め続けることが出来たなら、それはもう、(或る種の人にとって)無上の喜びだと思います。

 

 

 やっぱり、理想を考えるなら、最終的には、好きなものを選び取る人生に収束していくことになるんじゃないでしょうか。

 

 

 

 

  江崎玲於奈博士(物理学者)も、こう言っておられます。

 

 

 

 

 「自分らしい生き方をするためには、戦うことを避けてはならない。」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロケン•••

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ローーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 江崎博士は、独特の、合理的な、素晴らしい個性の持ち主でいらっしゃいますし、あの、個人主義の国・アメリカの人たちからさえ、「エサキは日本人らしくない」と言われているほどの人物です。

 

 あまりにも自己主張が強すぎるため、(残念なことに)日本人の同僚たちからは、“バナナ”であると、揶揄されてしまったこともあるそうです。

 

 見た目は(黄色い肌をした)東洋人なのに、中身は(白い肌をした)欧米人みたいな特徴を備えていることから、そう言われてしまったのだそうです。

 

 そうした二重構造がバナナの形態っぽい、ということですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、ところでね。

 私、今日のお昼ご飯、明太子のおにぎりを食べたんですよ。

 

 

 めっちゃ、美味しかった!

 

 

 それはそれでいいんですけど、明太子って表面は赤色じゃないですか。

 それで、当たり前なんですけれど、齧ると、中身も赤色なんですよね。

 

 

 

 それでですね、ネットのニュースサイトを見ていたら、たまたま、女優の橋本環奈さんのウェブページにて、赤色の寝袋に包まった、おどけたような表情の彼女の写真が、掲載されたとの記事がそこで、紹介されていたのでした。

 

 

 それを見た人たちは、「まるでタラコみたいで可愛い」とか、「何この可愛いらしい明太子は」といった感じで、反応を示していたようでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、そうですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふっふっふ•••••••。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 でもね、思うんですけど、あれ、たぶん、リンゴですよ(笑)。

 

 

 

  

 

 なぜかといいますとね、彼女は色白肌だからです。

 

 

 リンゴの赤い皮を剥けば、中身は白いじゃないですか。

 

 

 

 

 

 

 だからなのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 明太子だと、中身も赤いことから、今回は当て該まらないような気がします(もちろん、当て該まるかもしれませんよ)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 江崎玲於奈博士がバナナなら、橋本環奈さんはリンゴ、というわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 奇しくも、彼女のファ一ストネームは、「リンゴ」という意味も含んでいるらしいですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに、私はというと、まあ、やっぱり、バナナでしょうね(笑)。

 

 

 もう、日本人の見た目そのものです。

 

 

 

 

 

 

 思いっきり、高崎、って感じ(笑)。

 

 

 

 

 

 

 ロケン•••

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 •••さ、仕事!仕事!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これからも仕事がはかどるぞおぉぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カスケード

 先日、道を歩いていたら、街で、偶然、廃墟を見かけました。

 

 壁や屋根などに蔦が満遍なく絡まり、いい雰囲気を醸し出していたので、思わず撮影してしまいました。

 

 

 
f:id:hirameking:20170721195110j:image

 

 

 なんか、この上の写真、光が、まるで左利きの人がデッサンしたときの筆線みたいになっていますね。

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチっぽい感じ。

 

 

 
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 今度は、右利きのデッサンの筆線、って感じですね。

 



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 宛ら、“光のカスケード”ですね。

 

 偶然、こういう写真が撮れちゃうんですよね~。

 当初の目的は、廃墟を撮ることだったのに、いざ写してみると、こういうふうになる。

 

 

 

 やっぱり、私、“芸術の神様”に愛されているんですかね?! 

 

 

  

 ただ、まあ、偶然の持つパワーも、侮れない部分がありますけれどね。

 

 たとえば、ピストルを作る過程についてなんですけれど、こんな話を聞いたことがあります。

 工場で大量生産するなかで、「One of thousand」と呼ばれる超優良品が 、偶然、出来上がることがあるのだそうです。千個に1個くらいの割合でね。

 それは、どんな天才職人が手作りで仕上げたものよりも、性能が勝っているのだそうです。

 

 

 

 偶然の力、侮り難し。

 

 

 

 まあ、本当は、そこに何らかの力学が働いて、そうなっているんでしょうけれど、でも、究極的には、偶然だろうと必然だろうと、良い作品になりさえすれば、私は満足ですけれどね、物作りにおいてはね(笑)。

 

 

 

 

 

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銃と統治機構

 アメリカは、「小さい政府」だといわれていますよね。すなわち、議会などの立法府、警察などの行政府における成員数が少ないタイプの統治システムに基づいた国家である、ということですね。

 

 さて、それでね。

 思うんですけれどね。

 アメリカは、銃社会ですよね。なぜ銃社会なのかというと、それはたぶん、政府を「小さ」くしたぶん、支配力が弱まり、それを銃という(パーソナルな)武力で肩代わりしているから、そうなっているものと考えられます。

 日本は、銃社会じゃありませんよね。でも、「行政国家現象」と呼ばれているくらい、行政権の比重が大きい社会ですよね。いってみりゃ、「大きい政府」ですよね。

 「大きい政府」だからこそ、国民一人ひとりが銃を持たなくて済んでいる、ともいえるんじゃないでしょうか。

 

 しかし、だからといって、それは喜ばしいことではないんですよね。

 国民相互の信頼関係が乏しいがゆえに、「大きい政府」の統治力・支配力に頼らざるをえない状況になってしまっている、とも考えられるからです。

 

 形こそ違え、アメリカも事情は同じです。

 

 人と人とが、信じ合っていない。

 

 だから、懐に銃を隠し持っている。

 

 それで、その銃にガードさせているぶんだけ、政府の負担が軽くなっているため、「小さい政府」で済んでいると思うんですよ。ただそれだけの話でしょう。

 

 

 でも、そうはいっても、「大きい政府」よりは「小さい政府」のほうが、まだ、ましなのです。

 

 政府なんてのは、小さいに越したことはないんです。

 大きい必要なんて、更々ありません。

 

 だから、国会議員の数も、公務員の数も、どんどん減らしてしまったほうが、(ホントは)いいんです(国会議員および公務員の皆さん、すみません)。

 

 

 はっきり言いますけれど、それらはもともと、あまり必要ないものなのですよ。  

 

 もちろん、銃も必要ありません。

 

 

 

 必要なのは、「信じる力」です。

 

 

 

 人と人とが信じ合える世の中こそが、真の平和な社会だと呼べるのです。

 

 

 戦争を放棄する平和憲法こそが人類の模範ともいうべき理想の形であり、世界の未来だといえるのに、それをわざわざ改正する(改悪する)ような動きになっちゃっているなら、世も末でありましょう。

 

 

 憲法は、いまのままでいい。

 

 

 憲法を変えるよりも、まずは本当のことを知ったほうがいい。

 

 

 

 

 いまの世の中(資本主義社会)が、いかに複雑であるかということを。

 

 

 

 

 そして、人と人とが信じ合えないのは、その複雑さのせいなんだ、ということを。

 

 

 

 

 

 それに関するテーマについては、今後また、別記事にて、詳しく述べてまいります。

 

 

 

 

 

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俺の名前は印籠あり、だ。

 子供の頃(小学校時代)、よく、TV番組の主題歌や台詞とかを、ラジカセの内蔵マイクでアナログ録音することがありました。 

 すなわち、番組がリアルタイムで放送されるときに、直接、ラジカセをTVのスピーカーの前まで持っていって、録音ボタンを、ガチャッ、ってやるわけですね。カセットテープをセットしてね。

 そうやって録音したものを、翌日、学校に持っていって、クラスメイトたちに聴かせるのが、妙に楽しいんですよね~。

 だから、よく夢中になって録っていました。

 

 それで、きれいに録音できるなら万事OKなんですけれど、けっこう、家族が邪魔してくるんですよ。

 あと、たまに、猫が鳴いたりして、その声が入っちゃったりもしました。

 

 たとえば、里見浩太朗さん主演の時代劇・『長七郎江戸日記』を録ったことがあったんですけれど、主人公の長七郎というのは、世にはびこる悪者たちを華麗な剣さばきで退治する正義のヒーローであり(二刀流の使い手です)、徳川家光江戸幕府3代将軍の座を巡って争い非業の死を遂げた、駿河大納言・松平忠長の遺児でもあるので、必ず、敵をやっつける前に自分の身分を明かさなきゃならないわけですよ。

 そのときの決め台詞があって、毎回それを言ってから敵を倒す、という流れになっているのですね。TV的にはね。

 

 

 「俺の名前は印籠あり、だ。迷わず地獄に墜ちるがよい。」

 

 

 そのタイミングで、うちの猫が可愛い声で鳴くんですよ。

 

 

 緊張感が無いったらありゃしない(笑)。

 

 

 でも、クラスの女子たちにウケたりしたので、それはそれでよかったんですけど(笑)。

 

 

 

 いま思えば、何かを編集したり、異なるイメージのもの同士を組み合わせたりして、新たな、意外性のあるものを生み出す面白さに、この頃からすでにハマっていたような気がします。

 

 

 お蔭で、安定というものには無縁の人生になってしまった部分もありますけれどね(笑)。

 

 

エレキ法師

 

 

 
f:id:hirameking:20170707003122j:image

 

  盲目のギタリスト、“エレキ法師”。

 

 ちなみに、彼が使用しているギターは、テレキャスターです。

 レスポールとかよりは、こっちのほうが合うかな、と思いまして、このような設定になりました。

 

 

 

 

 

 *********************

 

 

 次回は、ドラム法師ですかね。

 

 いや、ベース法師かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、気が向いたら、ということですけれどね(笑)。

 

 

 

 

 

 

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純愛とは何か

 最近、SNSやブログ、或るいはネットのニュース記事などで、近況報告的な話題として、「本当の愛とは何かについて考えています」、というようなコメントを発する方々を、ちらほらとお見受けするようになった気がします。

 

 これは或る意味、人間にとって普遍的なテーマであり、且つ答えの見えにくい難問であるともいえましょう。

 人によって意見は様々でしょうし、同じ人でも経験や成長の度合いに応じてその中身が変化していく性質のものでもあると思われます。

 

 この点、私の考え方は、きわめてシンプルです。すなわちね。

 

 

 純愛とは、男女双方の魅力のレベルが釣り合っていることである。

 

 

 これですね。

 私は100%の運命論者なので、たとえば自分のパートナーとなる人は魅力の水準が自分と同レベルの人であり、同時に、その人はそのことを以って自分の“運命の人”である、という捉え方をすることになります。

 

 したがって、これはいわば神様が何百億年、或るいは何千億年も前から書き上げたシナリオなので、今さら人間の小ざかしいテクニックでどうこうできるものではないし、どうこうすべきものでもない、と見做すことになります。

 

 そうであるなら、蚊帳の外にいる人、或るいは魅力の不釣り合いな人が自分たちの間に立ち入ろうとしてきた場合には、(義務として)自分は二人の絆を守る必要があることになりましょう。

 

 これは、(私の感覚ですけれど)単に相手のことが好きだから相手を守りたいという理由だけにとどまらず、(生物学的な)自然界の掟に従いたいからその人のことを守りたい、ということでもあるような気がするんですよね。

 そして、それが端から見ると、いかにも「純愛」であるかのように受け止められる、ということなのではないでしょうか。

 

 ま、実際、そうなんでしょうけれど。

 

 

 

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