橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

海へ行くつもりじゃなかった

  最近、私はブログを書くうえで、パフォーマンス効率が下がってきていると感じているし、実際も(残念ながら)そうなってしまっています。

  かつても述べたように、記事を書きたいという気持ちがないわけではないし、ネタがないわけでもありません。むしろ、それらは山ほどあります。スマホやパソコンなどの発信ツ-ルも、ちゃんとあります。

  では、なぜ、パフォーマンスしにくくなりつつあるのでしょうか?

  その理由は、環境にあります。

  現在、私は、それを行うに相応しい環境下にいません。なかなかそれを理想的な方向へと変えていけていません。

  それゆえ、何らかの対策を講じることで、そうした環境を整える必要があるのです。

  しかし、自分一人の力だけでは、そろそろ限界に来ているということもまた、感じ始めています。

  そこで、かつての旧友ラインを通じて、或る友達の家族筋のかたに協力を要請してみることにしました。環境づくりのためのね。

  そのかたの事務所は、とある海辺の街にありました。そこには何度もお邪魔させていただいたことがありました。昔ね。

  私はこの春、そこを久しぶりに訪ねてみました。しかし、移転したのか、それとも事務所を畳んだのか判りませんけれど、いずれにせよ、そこには別のテナントが入っていたのでした。

 

 

  私はそこから歩いて十数分くらいのところにある海岸へ行きました。

 

 

  自然と足がそちらへ向かっていました。

 

  砂浜に腰掛けて、しばらく、海を眺めていました。

  独り、潮風を前身に浴びながら、ただ、物思いに耽っていました。

 

  数十分間、そうしていました。

 

 

 

  すると、ふと、アイデアが浮かんできたのでした。

 

 

 

  のちに、私はそれを実行することに・・・。

 

  嘘だと思うかたがいらっしゃるかもしれないし、ひょっとしたら、不愉快に感じられるかたもいらっしゃるかもしれません。

  それでも、その時は、まるで鷹が急降下して獲物を捕らえるかのように、それは頭の中に閃めいたのでした。

  それは、必ずしも、自分のスマホやパソコンからブログ記事を執筆しなきゃならないわけではない、というものでした。ブログやSNSなどのIT面での発信ライン・発信環境といったものは、維持・運営を人任せにしたっていいんだ、と。

 

  そうすれば、一切の障害を気にすることなく、心おきなく、パフォーマンスしてゆけるのではないかと、思うに至ったのでした。

 

 

  私は、そうであるがゆえに、私設秘書を雇うことにしたのです。

 

 

  まるでタレントさんが芸能プロダクションと契約を結び、マネジメントを委託するかのように、私も、自身のパフォーマンスをIT面から支えてくださり、バックアップしてくださって、ときには、私生活上も相談に乗ってくださり、話し相手にもなりうるような、そんな優秀で、信頼できるかたに、マネジメントを依頼することにしたのでした。ポケットマネーでね。

 

  どうせなら美人秘書がいいだろう、と思って、引退した元アイドルの女性に交渉し、来ていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  嘘です(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  不愉快ですよね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  エイプリルフールはもう終わったってのに(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

  申し訳ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  でも、半ば、本当なんですよ。

 

 

 

 

 

  パフォーマンス環境をいままで以上に整えなきゃならないのは事実だし、それを実行するには自分一人の力だけでは難しいということもまた、紛れもない事実なのです。

 

  だから、いずれ近いうちに、新たな行動を起こさねばならないというのは、嘘じゃあないんです。

 

  そうしないと、論文も書けないし、小説も書けないし、絵も描けませんからね。

 

  私は、だから、そうするつもりなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  それに向けて頑張っていこうと心に決め、私はその日、砂浜をあとにしたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

🌷

 どうも。橋本順一です。

 

 いま、ちょっと、アレなんで、

また後で、改めて、ゆっくりブログを書きたいと思います。

 

 

 

 それでは、よろしくお願いします。

 

 

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思想・良心の自由と表現の自由

 憲法上、私たちには各種の自由が与えられています。

 その中でいちばん制約のレベルが少ない、というか無制限のものがあります。それは、思想・良心の自由(19条)です。個人が、頭の中で何を考えようと、OKなのですね。どんなヘンなことやヤバいことだったとしても、すべて許されます。

 ところが、それが頭の外に出てくると、それは「表現」という扱いになります。その人は、頭の中の考えを外部へ表明した、すなわち「表現」した、ということになるのです。「表現の自由」は憲法21条で保障されているのだけれど、絶対無制限というわけではなく、法(もしくは公権力)からの縛りを受けます。完全な自由というわけではないんですね。つまり、合理的な理由があるなら、規制を受けることになるのです。

 昔、小泉純一郎元総理が、終戦記念日靖国神社を参拝して批判されたことがありましたけど、その時彼は、「私の思想・良心の自由に対してとやかく言うな!」と弁明していたのだけれど、それ、じつは「表現」していることになるんですよね。頭の中にだけとどめておいているなら「思想・良心」なんだけど、外部へ出しちゃってますからね。参拝というかたちでね。それは、彼の望みとは裏腹に、制約を受けうるのですね。

 

 さて、このように、自由というのは(原則として)制限を受けるものなのです。

 思想・良心の自由を除くあらゆる自由が、その対象になります。

 プライバシーの自由とかも、そうです。或る程度有名になると、公人としての立場から、一般人とは異なるレベルの規制を受けることもあるのです。もっとも、私のよく知っている人の中には、まったく無名の一般人であるにもかかわらず、制限だらけ、みたいな人もいますけどね。

 

 表現の自由も、合理的な理由に基づいて、制限されることがあります。

 

 完全な自由というわけではないんです。残念ながらね。

 

 芸術・芸能の世界でも、それは当てはまります。

 なんでもかんでも表現すればいいというわけでもないんですね。

 

 だから、私の愛する美的モデル、美の描き方も、必ずしも人々に好意的に受け入れられるとは限らないのですね。

 

 たとえば、物語の中で美少女を描くという場合に、私特有の、耽美主義とかロマンチシズム、或るいは生物学的な「ご褒美理論」に合致するような表現が、好まれる場合はいいのだけれど、そうでない場合もある、ということです。

 つまり、制約を受けているのですね。

 一方で、いわゆる“女優魂”といったものも、映像の世界では重んじられることがあります。あたかも芸能生命を懸けるかのごとき、女を捨てたかのような、体当たりの演技をしてみせ、観客や視聴者から喝采を浴びる役者さんもいらっしゃいますよね。

 記憶に新しいところでは、映画『銀魂』で神楽役を演じた橋本環奈さんの事例があります。彼女が、白目を剥きながら鼻をほじる場面は、話題になりましたよね。それに対しては、高く評価する声が多かったように思います。“女優魂”だ、と。

 また夏に『銀魂2』が公開されるらしいですけれど、さらにパワーアップしたパフォーマンスが作中で繰り広げられるのではないかと、多方面から期待されているようですね。再び彼女の“女優魂”を見れるのでは、とね。

 役者さんたちの熱演によって素晴らしい作品が出来上がるのは喜ばしいことだと思います。

 ただ、“女優魂”という言い回しはとても便利な言葉であって、何か極端な表現や演技をした場合の、受け入れられるためのエクスキューズになり得るものであるような気も、一方でしてしまうんですよね。

 たしかに、女優さん一人ひとりの心の中にある表現への飽くなき向上心、探究心は、絶対的なものであり、不可侵のものです。或るいは、監督さんをはじめとした製作陣の頭の中にある理想の表現、表現欲求といったものについても、それは絶対的な保護の対象となります。なぜなら、それは思想・良心の自由だからです。

 しかし、それを外部へと表わしたならば、今度はそれは「表現」という扱いになるのであって、完全無制約というわけにはいきません。

 

 “女優魂”も、絶対無制約というわけではありません。 

 

 「表現」であるからには、より良いものへと磨きあげるためにも、修正のための各種の制約がかけられることが必要な場合もあるのですね(もちろん、不当な、厳しすぎる制限は許されませんけど)。

 

 “女優魂”は、合理性ある制限ならば、それを受け入れることで、最大限の魅力に繋がります。私は、そう思うのです。詳しくは、過去記事(『ギャップ』『浮気、いやらしさ、愛』)をご参照いただければ幸いです。

 

 表現者も、一人の人間です。

 

 俳優・女優という以前に、一人の人間なわけです。

 

 そうであるなら、生物学的なミッションの面から、縛りを受ける運命にあるのではないでしょうか。

 女優さんも一人の女性である以上、どうしても、そのミッションたる「子孫の繁栄」および、そこから派生してくる「ご褒美性」といった概念を疎かにはできないような気が、私にはしてしまうのですね。

 

 要するに何が言いたいかっていうと、たとえ仕事であれ、“女優魂”の発露であれ、その人の「ご褒美性」を低下させてしまうような演技・表現は、一人の女性としてみた場合、必ずしも望ましいものではない、ということです。

 

 また話を橋本環奈さんのケースに戻しますけれど、彼女は、世界最高峰の美形といえる器であり、いずれ国外へと飛び出して、ワールドワイドに活躍するようになるでしょう。彼女はそれほどまでの逸材だと思います。

 映画の製作陣の方々、並びに橋本環奈さんの所属事務所の方々にとっては、私の申し上げることは、今さら“釈迦に説法”だとは思いますけれど、彼女の社会的役割を考えるなら、やはり広い世界へと羽ばたいていくような方向性でもってマネジメントしていくべきなのではないでしょうか。

 それだけに、『銀魂』での例のシーンは、残念に思えてきてしまうのです。

 日本随一の美少女の使い方として、ああいう演出はいかがなものか、と感じてしまうんですよ。これは、直感です。

 当時まだ現役高校生の、嫁入り前の、17歳の娘さん••••••あ、今日は橋本環奈さんの19歳のお誕生日らしいですね、え~と、おめでとうございます、それで、その、17歳の女の子にあのようなことをさせて、それを見てヘラヘラと笑っているという価値観が、私には判らないんですよねぇ。

 

 だから、もう、そういうのは、いいんじゃないんですか。

 

 工藤静香さんだって、リリース当初、『嵐の素顔』のあの印象的な振り付けが話題になりましたけれど、もう歌番組に出ても、それをやらなくなったじゃないですか。

 表現、パフォーマンスというのは、状況に応じて変化していくものでもあるんですよね。ずっと同じじゃなくてもいいのです。

 

 それはいわば、状況の変化という名の制約を受けた、ってことだと思います。

 

 

  それと同様に、“女優魂”も、「ご褒美性」の見地から、そして、その人の持つ器や社会的使命などの観点から、制約を受けるものである、との結論が導かれてくるのです。

 

 

 “女優魂”は「表現の自由」なのであり、「思想・良心の自由」ではない。そうであるがゆえに、修正を受けるものとなっているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

運命の赤い糸

 信じることの対象は、「目に見える世界」と「目に見えない世界」の両方です。

 

 

 「目に見える世界」というのは、ご存じ物質世界、物理的世界のことです、我々が暮らしている、このね。

 「目に見えない世界」というのは、物と物の間の関係性や、人と人の間の関係性を指します(つまりはエネルギーを指します)。

 

 

 私たちは、その両方の世界を材料として、「現実」の世界像を形成するチャンスを与えられています(ただ、残念なことに、多くの人は「目に見える世界」しか材料に用いません)。

 

 

 

 じつは、成功や幸せ、豊かさといったものは、我々のすぐ目の前にあり、手を伸ばせば届く状態になっています。

 

 

 

 しかし、(私もそうでしたけれど)多くの人はそのことを信じないために、それに向かって手を伸ばそうとはしません。

 

 なぜ、手を伸ばそうとしないのでしょうか?

 

 

 

 

 

 目の前の世界が歪んで見えているから。

 

 

 

 

 

 この世のメカニズムは、「想い」が「現実」を形成するような仕組みになっています。

 

 

 それゆえ、信じないと、歪んだ世界像しか形成できないことになってしまうのですね。

 

 

 なぜなら、材料(エネルギー)が乏しいからです。

 

 「信じない」ということはどういうことかっていうと、それは、有用な、素晴らしい素材を「活用しない」、「採用しない」ということに通じています。

 つまり、エネルギー(物体相互間の関係性)を(目に見えないからという理由で)材料として用いない、ってことなんですよ。

 

 それゆえ、世界像を作るための材料が乏しくなってしまい、いびつな、不完全な現実世界が形成されてしまう羽目になるのですね。

 

 そのような世界は、どんよりと曇り、歪んで見える世界です。それを眺めていたって、幸せにもなれないし、元気にもなれないですよね。

 

 

 せっかく作るのであれば、見ていて元気になれる世界のほうがいいですよね!

 

 

 材料をふんだんに用い、時間をたっぷり掛けて、情熱を注ぎ込んで作り上げた世界像は、バランスが整っていて、美しくて、キラキラと輝いて見えるのです。

 

 

 

 

 見ていて元気が出たり、幸せな気分に浸れたりしてくるんですよ!

 

 

 

 

 

 人生も芸術(創作活動)も、同じ。

 

 

 

 作り手がエネルギーに満ち溢れているか否かで、すべてが決まります。

 

 

 それは、「想い」の力が大きいか小さいかによって、エネルギーを世界像形成のための材料に加えることができるか否かが、決まってくるのです。

 

 

 

 強い「想い」が、「信じる気持ち」が、素晴らしい「現実」を作るのです。

 

 

 そういったものは目には見えないけれど、あたかも「時間」がこの世に確かなものとして存在しているのと同様に、まるで“運命の赤い糸”みたいに、この世界の各構成員相互間に確かに存在し、互いをしっかりと繋いでくれているのです。

 

 言っている意味、判りますよね?

 時間って、目には見えないけれど、ある・なしでいえば、ありますよね。つまり、ちゃんと存在しているってことですよね。

 それと同様にですね、想いとか心とか、人と人との結びつき、関係性といったものも、目には見えないじゃないですか。でも、それは“運命の赤い糸”と擬態できるほどの、確かな存在であるといえるのですね。ちゃんと、それらは、私たちの暮らすこの世界の身近なところに、存在している、ってことなんですよ。

 

 

 その意味で、そうした仕組みがあることは、決定論・運命論がカバーするメカニズムであるといえましょう。

 

 

 

 

 

 

 “運命の赤い糸”を信じられるかどうかで、幸せになれるかなれないかが、決まってくるのです。

 

 

 

 

彼女は純愛を抑えきれない

 
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  最近、少し考え方が変わってきて、私は、100%の運命論に、一部、修正を施しました。それが、前回のブログ記事です。

 

 どういうものかといいますと、人の「想い」が「現実」を変えうる、との考え方です。

 詳しい説明は前回行いましたので、割愛させていただきますけれど、要するに、次のようなものです。

 

 万物は流転する。

 ゆえに、「現実」も揺れ動く。

 人の「想い」はその影響を受け、やはり揺れ動く。

 その一方で、「現実」もまた、人の「想い」に影響されて、変化してゆく。

 

 以上のような感じです。

 

 


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 100%の運命論は、人の運命は、生まれてくる時代、国、地域や、顔、性格、能力、そして家族や友人や恋人との関わり、職業、さらには健康や寿命に至るまで、予め、数百億年、数千億年も前から、すべて決められている、とする考え方です(決定論)。

 ここでは、人の意思が介入する余地はなく、運命は人間の手によってでは一切動かせない、としています。

 私はずっとこの立場だったのですけれど、少し修正し、「想い」の力によって「現実」を変えることは(或る程度)可能である、と考えるようになりました。

 

 



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 なんか、女性エッセイとかの装丁写真っぽい載せ方になってきましたね(笑)。

 

 

 

 

 さて、それはいいとして、続きに参りましょうか。

 100%の運命論って、じつは、やや窮屈に感じていた部分もあったんですよ。何か未来への見通しが、あまり良くないっていうか、空気としてというか、流れとして、行き詰まっているっぽい時って、あるじゃないですか。 

 そういう場合、100%の運命論に立っちゃうと、「運命は決まっているんだ」、「自分の力では好転させることはできないんだ」という気持ちが強くなってきてしまうがゆえに、ちょっと気分的に沈んでしまうこともありうるわけです。

 

 


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 ところが、それを修正してですね、「現実」はもともと揺れ動くものなんだ、そういう性質があるんだ、だから自分が強い「想い」を持ち続けることで「現実」を変えうるんだ!・・・と考えたならね、とても気が楽になったんですよね。

 

 これは私の中で、非常に大きな収穫だったように思います。

 

 

  現時点で与えられている材料から、(自分の狭っ苦しい了見で)未来を一方的に推測したとき、場合によっては暗く、重苦しい「現実」が待ち受けているような気が、したりしてしまうこともあります。

 

 でも、この新たな、修正した運命論でそうしたケースを考えるなら、「現実」はいくらでも揺れ動くんだ!、それも自分の「想い」の力によって!、って思えてくるから、不思議です。

 

 

 

 それはとても幸せなことだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここに載せた白百合の写真、じつは、昨年の11月直前に撮影したものなんですよ。

 その日、散歩中、道で見つけたものです。

 

 綺麗に、咲いていました。

 

 めっちゃ季節外れですよね。

 

 

 

 

 

 でも、「現実」に、こういうことが起こるわけですよ。

 

 

 起こらないなんて、決めつけられないのです。

 

 

 

 

 

 未来は、何が起こるか判りません。

 

 

 

 

 

 そうであるなら、前向きな、良い未来だけを、信じて待ちたいものですよね。

 

 

 

 

 恋愛小説・ドラマとかもそうですよね。

 

 

 

 

 

 最後まで、どうなるか判らないじゃないですか。

 

 

 

 

 私自身、小説を書いたとき、ストーリーやプロット、場面描写、登場人物の名前・キャラクターさえも、途中でどんどん変更していきましたもん、随時ね。

 

 

 

 

 

 

 

 より良いものを生み出すために、そうした努力が必要なのです。

 

 

 

 

 

 

 恋する美少女は、きっとこういう気持ちになり、こういう言葉を喋り、こういう態度を取るだろうな、っていう感じで。

 

 

 

 

 

 彼女はこんな時、きっと好きな男性への愛をこう貫くだろうな、みたいに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 逆に、こういうことは言わないだろうな、こういうことは絶対にやらないだろうな、というふうにも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人生や日常生活、運命も、それと同様だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは「想い」によって変えられるのです。

 

 

揺らぎと力

 よく、エンジェルナンバーのサイトや自己啓発本などを読むと、「心が現実を作る」、「想いが人生を決める」といった内容の理論が書かれてあったりします。

 

 「想い」っていうのは揺れ動きますよね、自分の置かれている状況によってね。また、人の気持ちって、けっこう複雑で、(修行を積んで精神統一が出来るようになったのであれば話は別だけれど)相反する気持ちが同居している時もあったりしますよね。ポジティブな気持ちとネガティブな気持ちというふうにね。

 

 さて、そうであるならね。

 そうした「想い」に対する評価が「エンジェルナンバー」なんだ、と捉えるならね。一日のうちに、良い意味合いのナンバーと悪い意味合いのナンバーの両方を見かけた場合に、そのことと辻褄が合うことになりましょう。

 たとえば、「7777」と、「或る、悪い内容を示すナンバー」とを、両方、同日中に見たならば、

 

 

 「どっちだよ!」

 

 

 とツッコみたくなるような結果であるといえるのだけれど、それについては、

 

 

 どっちでもある、

 

 

 っていうのが答えだということになります。

 

 良い心構えと悪い心構えとが、自分の中に両方ある、ってこと。

 

 天使さんたちが、それら両方の気持ちに対して、両方、判定してくださった、ということなのです。

 

 

 したがって、その場合は、なるべくプラス思考をするようにして、良い現実だけがやってくるようにすればいい、という結論になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、ところでね。

 一つ前の記事で、100%の運命論について少し触れたのですけれどね。もし、それが本当にこの世の真実に妥当するなら、「じゃあ、心って何のためにあるの?」という話になりますよね。

 

 

 心は、揺れ動く。

 

 

 揺れ動くから、それを「こころ」と呼ぶ。

 

 

 100%、予め定められた運命のシナリオの通りに「現実」が決定されていくのであれば(決定論の考え方)、「心」は一切揺れ動く必要がなく、ずっと一定のままであり続けりゃいいじゃん、と考える余地もあります。でも、実際、それは揺れ動きます。

 

 

 

 もしかしたら、この世のメカニズムは、そうした「心の揺らぎによって現実の未来も揺れ動く」仕組みになっているのかもしれません(つまり非決定論の考え方です)。

 

 

 

 わざわざ人間に「心」などというものが備わっているのは、その紛れもない証拠なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 万物は流転します。

 

 「現実」は揺れ動きます。

 でも、揺れ動くのはそれのみならず、「心」もまた、そうです。

 

 

 

 

 

 「現実」も揺れ動くし、「心」も揺れ動きます。

 

 

 

 

 

 「心」も、この世を構成するいち要素です。

 「心」も万物流転原則に従います。だからこそ、「心」は揺れ動くのです。

 

 

 「エンジェルナンバー」は、そうした揺らぎも含め、「現実」を予告したり評定したりします。

 良いナンバーも悪いナンバーも同日中に両方見かけることがあるのは、そのような理由に基づいているからなのですね。

 それは過去の行いに対する評価だったり、未来の事実に対する予言だったりするのであり、ケースによって内容は様々です。

 

 

 

 「心」の持ち方一つで、「現実」というのはいろいろと変えうる余地があるのです。

 揺り動かせるのです(その意味からすれば、非決定論が正しいことになります)。 

 

 

 

 人は、(自然環境や社会環境、他人の「心」については、思うままに操ることはできないけれど)自分一人の「心」なら、肯定的な思考によって、良い方向へコントロールすることができます。

 

 

 

 その際の大事なポイントがあるとするなら、それは、たとえばニュース報道や人の発言・振る舞いなどの「現実」や、自分を取り巻く「環境」などに関しては、はっきりと判明している内容だけを、信じ抜くことだと思います。

 

 そして何より、自分の心の豊かさを、信じる。

 

 まだ事実か否かがはっきりしていないことに関しては、プラスの内容に思えるような解釈をし、マイナスの内容にならないように注意する。

 

 

 未来は、まだ到来していないのだから、現在の時点では、シロともいえないしクロともいえないのです。

 

 グレーでもありません。

 

 

 

 でも、敢えて色づけをするとしたら、やっぱりシロです。

 

 

 

 シロ。

 

 

 

 なぜなら、その時点では、それがシロじゃないなんて誰にも断定できないのですから。

 

 

 

 

 

 

 あくまでもそれは良い前兆である、と捉えてしまえばいいのですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「信じるということ」は、そういうことです。

 

 

 

 

 

 

 

 そして、信じた先に待っているものは、です。

 

 

 

 信じて、天や相手との間に強固な絆を作り、それを通じて、豊かな恵みを供給してもらえるようになる。絆というコネクションには、そうした大きなエネルギーが内在しています。

 

 

 

 

 それは、揺るぎなき不動のなのです。

 

 

 

 

 

 そういう意味では、そのの作用は、揺れ動くことのない絶対的なものであって、予め天使が策定しておいた運命のシナリオであるといえましょう。

 

 

 

 

 そうしたの法則は、未来永劫ずっと変わることはありません。

 

 

 

 

 

 したがって、その部分については、決定論が正しいということになるのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この世は、決定論の仕組みと非決定論の仕組みとの、両方のメカニズムによって規律されている、ということになるのです。

 

 

 

 

 

 

 

鶏と卵

  鶏が先か、卵が先か、という議論があります。

 

 

 たとえば、鶏がいて、卵を産んだとして、やがてそれが孵化し、ひよこが殻を破って出てくるわけですけれど、すると、今度はそのひよこが成長して鶏になり、また卵を産んで、またそれが孵り、ひよこになったかと思えば、またそのひよこが成長して鶏になり、卵を産んで、またそれがひよこになって成長し、鶏になり、やがて卵を産み、ひよこが出てきて成長後に鶏になって、またさらにそれが卵を産んで••••••っていうふうに、延々と、同じプロセスを繰り返していくことになるのですけれどね。

 

  それでですね、物事には始まりがあって終わりがある、と仮定した場合、必ず、何が、どの時点で、どのようにしてスタートし、どのようなプロセスを辿り、どのようにゴールしたか、というふうに、自分が論じたい物事の「始まり」と「終わり」の内容が、それぞれ確定していなければなりませんよね、その一連の流れについての正しい、はっきりとした答えを出すためにはね。

 

 でも、ひよこは、元を辿れば卵だったわけですけど、じゃあ、その卵はもともとは何だったのかって考えると、鶏が産んだものだったのであり、そしてその鶏は昔へ溯ればひよこだったわけで、そのひよこはもともとは卵で、それは鶏から産まれたもので、その鶏も過去を紐解けばひよこだったのであり、そんでもって、それは元を辿ればやはり卵から産まれて••••••というように、延々とプロセスが巡っていって、どっちが「始まり」でどっちが「終わり」であるかが、はっきりしないのですね。

 

 

 鶏が先なのか卵が先なのか、一体どっちが先なのかについては、断定できない、ということになるのですよ。

 

 

 さて、そうであるならば。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ば。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ば、ね。

 

 ば、なんですけれど、「信じる気持ち」と「成功」の関係も、同じメカニズムになっているような気がするんですよ。

 

 

 どういうことかっていいますとね。

 たとえば、ビジネス書や自己啓発書、エンジェルナンバーのウェブサイトなどで、よく、「信じる気持ちを強く持ち続ければそれが現実化する」みたいなことがいわれていますよね。それで、その場合も、「信じる気持ち」があるから「現実」がそうなるのか、もともと確固たる「現実」があるから「信じる気持ち」が強化されるのか••••••一体どっちなのかが、すぐには決められない、ということなのですね。

 

 

 つまり、両者が互いに影響を及ぼし合う、っていうこと。

 

 

 成功や幸せなどの、結果というか「現実」ってものは、両者の相乗効果によって生まれてくる成果であるような気が、私にはするのです。

 

 すなわち、「信じる気持ち」が「現実」を作り、「現実」が「信じる気持ち」を作る、ということになるわけですね。

 

 

  あたかも鶏が卵を産み、卵が鶏を産む、というのと同様にね。

 

 

 「信じる気持ち」は、自分とターゲット(もしくはパートナー)との間に、直通の、太いコネクションを作る効果があるため、両者間に大きなエネルギー(引力)を生じさせ、互いに引き寄せ合わせて、望む「現実」をもたらしやすくします。

 一方、今ある「現実」が、今の自分の、物事に対する解釈(「信じる気持ち」)に、大きな影響を与えていきます。

 

 

 両方の作用があるのです。

 

 

 さて、そう考えてきますとね。

 もしかしたら、「100%の運命論」は、一部、修正を施さなければならなくなるかもしれません。

 

 

 それにつきましては、また別記事にて、詳しく論じていきたいと思います。