橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

純愛とは何か

 最近、SNSやブログ、或るいはネットのニュース記事などで、近況報告的な話題として、「本当の愛とは何かについて考えています」、というようなコメントを発する方々を、ちらほらとお見受けするようになった気がします。

 

 これは或る意味、人間にとって普遍的なテーマであり、且つ答えの見えにくい難問であるともいえましょう。

 人によって意見は様々でしょうし、同じ人でも経験や成長の度合いに応じてその中身が変化していく性質のものでもあると思われます。

 

 この点、私の考え方は、きわめてシンプルです。すなわちね。

 

 

 純愛とは、男女双方の魅力のレベルが釣り合っていることである。

 

 

 これですね。

 私は100%の運命論者なので、たとえば自分のパートナーとなる人は魅力の水準が自分と同レベルの人であり、同時に、その人はそのことを以って自分の“運命の人”である、という捉え方をすることになります。

 

 したがって、これはいわば神様が何百億年、或るいは何千億年も前から書き上げたシナリオなので、今さら人間の小ざかしいテクニックでどうこうできるものではないし、どうこうすべきものでもない、と見做すことになります。

 

 そうであるなら、蚊帳の外にいる人、或るいは魅力の不釣り合いな人が自分たちの間に立ち入ろうとしてきた場合には、(義務として)自分は二人の絆を守る必要があることになりましょう。

 

 これは、(私の感覚ですけれど)単に相手のことが好きだから相手を守りたいという理由だけにとどまらず、(生物学的な)自然界の掟に従いたいからその人のことを守りたい、ということでもあるような気がするんですよね。

 そして、それが端から見ると、いかにも「純愛」であるかのように受け止められる、ということなのではないでしょうか。

 

 ま、実際、そうなんでしょうけれど。

 

 

 

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「自分」

 答えは、「外」にあるのではなく、「内」にあるような気がします。

 

 グローバル化が叫ばれている時代ですけれど、答えは日本国内にある。じつは意外にそういうもののような気がするんですよね。

 

 世界史に目を向けると、かつて大航海時代に、西洋諸国は積極的にアジアやアフリカに進出し、植民地を増やしていったという事実があります。

 でも結局は、現地の人たちから反乱や独立運動を起こされて、現在では西洋は完全にノ一タッチになっていますよね。つまり、最終的には、植民地政策は無駄だったことになります。西洋人にとって、答えはそっちには無かったのだといえましょう。

 「外」へ見出そうとの試みは、失敗に終わったというわけですね。

 

 なぜ、失敗したのか?

 それは、答えは「内」にこそあり、そこを見つめるべきだったのに、「外」へ意識が向かってしまったからでありましょう。

 

 西洋人は、西洋にとどまってこその西洋人だったのです。

 

 でも、それは彼らだけにいえることではなく、東洋人、さらには我々日本人にとっても同様に当て該まることであると思います。

 

 日本人にとっての答えは、日本にこそあるのです。日本国内。

 答えは「外」ではなく、「内」にあるのであります。

 

 さて、それでね。

 同様のことが、宇宙開発についてもいえるでありましょう。すなわち、(夢の無いことを言ってしまって申し訳ありませんけれど)宇宙に積極的に出ていっても、そこには得るものがないと考えられるのですね。

 その理由を簡単に申し上げますと、宇宙では人間の体内時計が狂ってしまうと予想されるからです。とくに女性にその傾向が強いでしょう。

 詳しくは別記事もしくは学術論文などで述べたいと思いますけれど、要するに、地球人の体内リズムは地球環境でしか形成できないからなのです。そして、そのリズムは、その星の公転周期や自転周期、および衛星の個数や公転周期によって決まってくるものだと考えられます。

 そういったリズムは、惑星ごとに違ったものになっているため、地球人がもしも別の惑星に行けば、生物時計がメチャクチャに狂い、自律神経失調症鬱病、癌などを発症することが予想されるのですね。

 

 地球人は、地球にとどまってこその地球人なわけですね。

 

 答えは宇宙にではなく、地球上にこそ、あるのです(もちろん、宇宙を知ることでより地球への理解が深まることにも繋がるでしょうから、宇宙開発にもそれなりの意義はあると思われます)。

 

 「外」ではなく、「内」なのです。

 

 

 さて、そうであるならね。

 それは個人の幸せについても、同様のメカニズムが当て該まるものと思われます。

 

 答えは「自分」の中にある、ということ。

 

 社会とか他人といった「外」の部分に目を向けることも、ときには大切でしょうけれど、最終的な答えは、いつだって、「自分」の中にこそあるのであります。

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ミステリー

 最近、ちょっと、ミステリー小説を読み始めました。

 いま、『小鳥を愛した容疑者』(大倉崇裕先生著)を読ませていただいているところです。

 

 勉強のためです。自分もいま、じつは小説を書いております(過去記事でも何回か触れましたね)。

 それは、基本、(広義の)サスペンスの形態をとっています。すなわち、物語が、時系列に従って順繰りに進んでいく、みたいな、そんな形式になっているわけですね。

 でも、一部、ミステリーの手法を取り入れているところもあります。

 

 “謎解き”ですね。

 

 ミステリー小説というのは、一般的に、“謎解き小説”であるといえます。

 それは、どちらかというと、過去に遡って、関連人物たちの間に何があったのかを解き明かすことに主眼が置かれているといえましょう。

 読者は、そうした謎が明らかになる過程でカタルシスを得ることができるので、読んでいて面白いと感じるのだと思います。

 

 私の作品は、今回はその要素がちょっと控えめになっていて、サスペンス的なカタルシスだけで押し切ろうとしている節があるのだけれど、でも、大倉先生の小説は非常に勉強になりました。

 ミステリー部分以外においても、たとえば、容疑者の心理を描いた箇所が、お手本になると思いました。

 こう書けばそれっぽくなるなぁと感心させられましたね。

 

 まあ、今後、私がミステリー作品を複数回にわたって書いていくかどうかは、未知数ですけれど。

 

 私、寓意小説っぽい物語が好きだったりするんですよね(笑)。

 

 自分の生み出した作品が日の目を見れるように、いまは努力あるのみ、ですね。

 

 さて、それで、ちょっとそれに関連することなんですけれど、また、シンクロニシティーを経験しました。

 (過去記事にて詳しく紹介したことがありますけれど)それは、自分がいま考えたり取り組んだりしていることの内容と、たまたま目にしたメッセージや事実内容とが一致した場合は、その行いが正しいものであり、且つその先にある結果もうまくいく、ということの暗示であるのだそうです。

 それでね、大倉先生の小説を読んでいたらですね、私の小説の中でも紹介した、或る格言が、出てきたんですよ。何かといいますと、次のようなものです。

 

 

 「天網恢恢疎にして漏らさず」

 

 

 これですね。

 びっくりしました。

 

 さらに、以前にもご紹介したことがあるんですけれど、私の小説の中で、或る動物が出てくるシーンがあってですね、それが大倉先生の作品中の或る場面でも、不意に、登場したのでした。何かといいますとね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒猫。

 

 

 

 

 

 

 

 

 これですね。

 またまたびっくりです。

 

 シンクロニシティー!

 

 嬉しいですね。

 良いことがありそうな予感。

 

 ちなみに、大倉先生の小説は、渡部篤郎さんと橋本環奈さんの主演で、ドラマ化されたようですね。

 

 こちらも、たくさんの人の心に記憶として刻み込まれるような、素晴らしい映像作品になることをお祈り申し上げたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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美少女、天才、燃えるゴミ

 美少女のことを、まるで美少女ではないかのように、悪く言う人がいます。

 

 或るいは、天才のことを、まるで天才ではないかのように、悪く言う人がいます。

 

 でも、そうしたからといって、美少女が美少女でなくなるわけではないし、天才が天才でなくなるわけでもありません。

 

 それは、あたかも、不特定物を特定したからといって、特定物になるわけではない(あくまでも特定された不特定物であるにすぎない)、ということと同様であるし、或るいは、燃えるゴミを雨の降る日に出して水浸しにしたからといって、燃えないゴミになるわけではない(あくまでも水に濡れた燃えるゴミであるにすぎない)、ということと同様です。

  

 

 

 

 美少女は何があろうと美少女であり、天才は何があろうと天才であり、燃えるゴミは何があろうと燃えるゴミなのであります。

ギャップ

 「ギャップ」というものについて、ちょっと考えてみたいと思います。

 

 それには、大きく分けると2種類のものがあるといえます。

 すなわち、「良いギャップ」と「悪いギャップ」の二つですね。

 

 まず、前者については、或る特定の人物が、(通常予測されがちな)その人のイメージを覆すような好ましい言動を取ることで、他者に対して良い印象をもたらす場合に、そう認識されることになります。

 たとえば、最近よく、“ギャップ萌え”という言葉が使われるようになったじゃないですか。

 いかつい顔の男性が、じつは笑顔がけっこう可愛らしかった、とか、不器用そうな人が、じつはピアノを弾くのが上手だった、とか、地味でおとなしそうに見える人が、じつは格闘技の達人だった、というような、意外性のある言動や個性を示した場合に、異性から好意的に受け止められるわけですね。

 

 私自身、身を以って認識できることがあるとすれば、それは、「意外に面白い」と人様から思ってもらえるということです。

 これは大変ありがたいことですし、オイシイことでもあります。

 昔、よく、東大生に間違えられることがあったんですよ。それはたぶん、話す内容が哲学的かつ論理的で、話し方も、ゆっくりとしたテンポで音を粒立てるようにして喋るからだと考えられます。

 服装や髪型のうえでも、友達から「真面目そう」、「頭良さそう」と、よく言われていました。

 

 そうすると、興味深いことに、取るに足りぬ普通の物言いが、相手からみて面白く聞こえるらしいのです(笑)。

 もうね、前後の文脈があまりにも理知的なんでね、なんか、たとえば、マヨネーズがどうのこうの…みたいなことを言っただけで、ウケちゃうんですよ(笑)。

 「ギャップ」ですよね(笑)。

 

 オイシイの一言です(笑)。

 

 これは幸いなことに、他者から「良いギャップ」だと思ってもらえたため、ウケたのでありましょう。

 

 

 一方、「悪いギャップ」のケースも、世の中にはあります。 

 

 まあ、優しそうに見えた人がじつは冷たい人だったとか、見た目はイケメンなのに中身が薄っぺらだったといったような事例をはじめとして、こっちのケースは枚挙にいとまが無いくらいでしょうけれど、今日ここでは、一つのテーマに絞って話を進めていきたいと思います。

 

 すなわち、思いのほか、下ネタが駄目である場合が、多い気がするということです。

 対象が女性のときは、とくにそうです。

 一部の例外を除き、基本的に下ネタはNGだと思っておいたほうがいいかもしれません。

 一体、なぜでしょうか?

 

 

 それは、女性の身体をオチにして笑い飛ばすような振る舞いであると考えられるからです。

 

 

 つまり、究極的なことをいえば、女性って、(生物学的にみると)オチの対象にしずらい存在なのですね。

 

 「ギャップ」演出の対象外だとお考えください。

 

 要するに、誤解を恐れずに申し上げるなら、女性は、異性を惹きつけるという意味においては、「落差」を見せる必要が無い、ってことなんですよ。

 

 なぜなら、詳しくはまた別記事にて改めて述べますけれど、「魅力」っていうのは、かいつまんでいうなら、「余裕」であると考えられるからです。

 

 

 女性は、異性から魅力的だと思ってもらううえで、努力が要らない。ただそれ自体として、「魅力」たりうる。

  女性の身体というのは、それくらい「余裕」を備えたものなのです。

 

 

 男性はなかなかそうはいきません。

 まず前提として、「余裕」を身につけるための努力をしなければなりません。

 仕事や勉学などを通じて、人間としての幅の広さを身につけなければなりません。

 したがって、人を笑わせたり女性から魅力的な男だと感じてもらったりするためには、ときには「ギャップ」(長所と短所の間の落差)を演出する必要性も生じてくるのですね。 

 

 しかし、女性はわざわざそんなことをしなくても、異性から魅力的な存在だと思ってもらえるだけの「余裕」を、もともと持っています。

 

 それゆえ、「ギャップ」を見せなくても、十分に相手をときめかせることができるのですね。

 

 

 つまり、逆にいえば、女性ってのは、それだけの“重み”を持った存在である、と考えられましょう。

 

 

 

 粗末に扱っちゃダメなんですよ。

 

 

 

 どうしてもそうしなきゃならない特段の事情がある場合ならやむを得ませんけれど、さしたる理由もなしに、女性をピエロ扱いする(ネタの対象にする)のは、生物学的には、許されないのですね。

 

 

 女性は、自分が惨めになることを、極端なまでに恐れます。

 

 

 したがって、(本人が望んでいるなら話は別だけれど)、基本的に、下ネタを言ったり言わせたりすることは、セクハラであり、モラハラであり、パワハラでもある、ということになりましょう。

 

 それは、「悪いギャップ」を女性に強要することを意味しているからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、それでね。

 たまたま、昨日、或る映画の予告動画を観ていたら、ほんの一瞬なんですけれど、衝撃的な場面を目にしたのでした。

 

 それはかなり、「ギャップ」のあるシーンでした。

 橋本環奈さん扮する戦闘民族の美少女が、白目を剥きながら鼻をほじるという、ショッキングな映像でした。

 

 この点、動画の視聴者からのコメントをみると、おおむね、好意的に受け止められているようでした。

 なかには、“女優魂”を感じた、との声もありました。

 

 

 感じ方は、人それぞれです。

 また、作り手側からみても、表現の自由憲法21条)があります。

 作品をどう作ろうと、それは作者側の自由です。

 

 しかしながら、私の感じ方はまた、別です。

 

 

 

 美少女の使い方、それで合ってます?…って。

 

 自然な流れで、あの場面に入っていけているって、本気で思ってます?…って。

 

 それ、本当に、楽しいんですか?…って。

 

 

 さっきも述べましたけれど、「悪いギャップ」を女性に演出させることは、理論上、セクハラやパワハラに相当するような、失礼な振る舞いだと、私には思えてしまいます。

 女性には、基本的に、「ギャップ」を見せる必要がありません。それゆえ、無理にオチを付けさせてまで(ピエロ役にしてまで)人目を引かなきゃならない理由はありません。

 

 これは橋本環奈さんのような美少女に限らず、女性なら誰が演じても当て該まることです。

 

 

 まあ、作り手さんの側に、原作がそうだからそれに忠実に従っただけです、と言われればそれまでなんですけれどね。

 

 

 それでも橋本さんは、見事に職務を全うなさったと思います。

 

 (私は芸能事情には疎いところがあるのですけれど)、たぶん、女優さんって、特定の作品に出る・出ない、或るいは出演する作品における個々のシーンを演じる・演じないといったことに関する自由は、(一応)あるんじゃなかろうかと思われます。

 それにも関わらず、「厳しかった」仕事を遂行したということは、彼女はきっと、その背後にあるもっと大きな何かを守ったんじゃないでしょうか。

 個々のオファーや個々のシーンごとに与えられる小さな自由を選ぶことよりも、もっと、女性として、(人として)、大切なものを守ったんじゃないでしょうか。

 だからあの場面を見事に演じきったのではないでしょうか。

 

 

 私が勝手にそう感じただけですけれどね。

 

 

 私は、なるべく物事の良い面にフォーカスを当てたい、といつも思っているにもかかわらず、ここでは、人様の作り上げた映画の、(個人的に)悪い面だと思われる部分にフォーカスを当ててしまいました。

 

 申し訳ありません。

 

 

 この映画の良い面について触れるのは、公開後の機会に譲りたいと思います。

 

 

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セルフイメージ

 私はいま、またちょっと人物画を描いているところなんですけれどね。

 

 改めて、その難しさを認識させられましたね。

 

 なぜなら、細い線一本の有無や位置次第で、その人の顔のイメージがかなり変わってしまうからです。

 髪型もまた、然りです。

 そういった点に気を付けながら、ぜひとも最後まで仕上げたいものです。

 

 

 ただ、やはり、いちばん大事なのは、そのモデルとなっている人の、セルフイメージをどう高めてあげられるか、という点でありましょう。

 その人物が、出来上がった絵を見て、テンションが下がってしまうようでは駄目なのですよ。

 

 だから私は、自分の作品を通じて、その人のセルフイメージを高めてあげたい、たとえ何があっても、(真面目でピュアなパワーならいざ知らず)、万が一ですけれど、不届きなパワーがその人物の自信を失わせるようなことが仮にあるならば、それを少しでも絵の力でケアしてあげたい・・・そんな心構えで、いつも絵を描いています。

 

 まあ、だから、完成がめっちゃ遅くなるんですけれどね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 関係ないですけれど、何年か前の私の写真です。

 

 人生で最もロングだった時代です。

 その後、バッサリいきました(笑)。

 数十センチくらいね(笑)。

 

 
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1ピース

 パズルの最後の1ピースって、なにげに重要だと思います。

 

 仮に、100ピースを組み合わせれば完成する作品のケースで考えると、99ピースまで嵌め込んであったとしても、最後の1ピースが抜けているなら、それは完成品とは呼べません。いくら99まで揃えてあるといっても、あと1ピース足りないなら、それはゼロと同じなのですね。

 100円の商品を想定した場合でも、それは同様です。たとえば、100円のパンを買いに店まで行き、99円しか持っていなかったら、そのパンは買えませんよね。つまり、1円に泣かされるわけですよ、1円を疎かにしてしまえばね。

 その意味では、1円の貴さと1億円の貴さには変わりは無い、といえましょう。

 それはあたかも、1人の命と1億人の命とで、貴さにおいてどちらも変わりが無い、ということと同様です。

 この世に無駄なものは何一つ無い、との考え方からすれば、すべてに価値があり、すべてが尊いわけだから、それも頷けるでありましょう。

 

 だから、パズルの最後の1ピースについても、全力で取り組むことが大切なのであります。

 

 もしそれが手付かずのままであるなら、その評価は残念ながら、「ゼロ」です。

 オール・オア・ナッシングだからです。

 

 

 「完成品」と「未完成品」との間には、大きな開きがあるのであります。

 

 

 芸術や科学の世界では、とくにその傾向が顕著です。それらのジャンルにおいては、“金メダル”にのみ、価値があります。銀メダルや銅メダルは、スポーツの世界でなら素晴らしい成績であるけれど、科学や芸術の世界ではそれはビリも同然なのですね。

 二番煎じじゃ、何の意味もありません。世界初、人類初の業績をあげるからこそ貴いのであって、ただの追従者、パクリであるなら、どんなに既存の偉業に対する再現性が高かろうと、その仕事は新奇的・独創的であるとはいえないのです。

 

 オール・オア・ナッシングなのです。

 

 「オール」の評価をいただくか、それとも「ナッシング」の評価をいただくか。

 果たして、どちらが望ましいのでしょうか?

 

 

 私は、断然、「オール」のほうですね。そして、先述したように、そちらの側へ行きたいなら、最後の1ピース(最後の詰め)に注力する必要があるのであります。

 

 その努力をやってはじめて、自分の仕事というのは「完成品」になるのであります。

 

 

 これは仕事に限った話ではなく、恋愛においても同様に当て該まる原理でありましょう。

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