橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

“非利き腕アート”

 3年ほど前から、私は、利き腕チェンジを試みてきました。


 もともと右利きなんですけれど、或る時、左利きになってみようかな、と思い立ちまして、それからというもの、毎日意識して左腕・左手を使うようにしてきたのですね。

 たとえば、左手でお箸を持つようにしたり、左手で文字を書いたりと、積極的にサウスポーになるための練習を積んできたわけです。


 なぜ、わざわざそのようなことをしたかといいますとね。

 一つには、新しい自分に生まれ変わるためです。
 万物は流転します。宇宙も、銀河も、星も、社会も、他人も自分も、すべてが、刻一刻と、移り変わります。
 ゆえに、そうした変化の流れにうまく同調することで、人は幸せに生きることができるようになります。
 常に、意識して、新しいチャレンジを試みていれば、それに対応したシナプスが脳内に新設されるので、周辺環境の変化についていけるし、頭の中を若々しく保つことができ、その結果として、昨日とは違う、フレッシュな自分になれるのであります。

 私もそろそろ人生の中盤に差し掛かってきたところなので、何かこう、今までとは違う自分を新たに育て上げるというか、鍛え上げるというような、そんな刺激的なアクションを始めてみたくなったのですね。

 ってなわけで、サウスポー・ライフを始めてみるのも一興かなと、そんなふうに、まあ、思い立った次第であります。
 それがまず、1つ目の理由です、ハイ。


 次に、2つ目として、右脳の活性化が挙げられます。
 人間の身体は、大別して右半身と左半身とに分けられるのだけれど、それらを動かしたときに生じる情報は、電気信号に変換され、神経を通じて脳へと送られる仕組みになっています。
 この点、不思議なことに、左右がクロスするようにして情報が送られる構造になっているのですね。すなわち、右半身からの情報は左脳へ伝えられ、左半身からの情報は右脳へ伝えられるシステムになっているわけです。面白いですよね。


 さて、それでね。私たち美術家は、新しい作品づくりのために、いつも頭の中で、自由かつ豊かなイメージを練り上げ続けなければなりません。
 そういった作業は、右脳の管轄下で行われます。
 したがって、右脳を活性化させて美術家らしいパフォーマンスを継続していくためには、左腕・左手を積極的に動かす必要がある、と考えたわけです。
 私が“なんちゃってサウスポー”にシフトしようとした2つ目の理由は、まさにその点に基づいているのですね。

 さらに、3つ目として、次のような理由が挙げられます。


 世界のアート・シーンにおけるまったく新しい美術様式として、“非利き腕アート”なるものをアピールしてみるのも面白いんじゃなかろうかと、私が思い着いたから。

 これなんですよね。

 どういうことかっていいますとね。私は本来、右利きであると申しましたよね。だから、不慣れな左手で絵を描いてみたらどうなるんだろう、と或る時思ったのですね。
 ひょっとしたら、まるで幼い子供が描いたみたいな、稚拙なんだけれど素直で自由な、のびのびとしたタッチの絵が描けるかもしれない、或るいは、あたかも狂気の人が描いたみたいな、鬼気迫るというか、通常の感覚では得られないような、特殊な筆致の絵が描けるかもしれない、と私は思ったわけですね。


 早速、描いてみましたよ、喜び勇んでね。

 その結果どうなったか?


















 普通でした。






 フツーにそこそこ上手い(笑)。



 とんだ期待外れに終わりました(笑)。



 それで、上手いといっても、やっぱり、右のほうが圧倒的に上手くて比べものにならないわけですよ。


 すると、不思議なんだけれど、左が右に嫉妬するんですよ(笑)。どっちも同じ自分なのに(笑)。


 変な感覚でしたね。





 まあ、それでも、3年もやっていると、けっこう馴染んできますよね。


 いまじゃ、食事に関しては、完全に不自由のないレベルになりました。硬めの揚げ物とかでも、箸だけで切り分けられますから(笑)。


 でも、絵と文章については、特別に気合いが入っているときにだけやるに止めているのが現状ですね。
 仕事やライフワークではスピードも求められるから、ちんたらやっているわけにもいきませんし。


 それゆえ、私はいま、小説原稿(手書き)の推敲作業をしているのだけれど、そっちはしっかり右でやっております(笑)。


 黒猫のシーンはもう書き終えたんですけれど、仮に左手で「黒猫」と書くのだとしたら、やっぱり大変じゃないですか(笑)。



 関係ないですけれど、先日、また路上で黒猫と会いましてですね、呼んだんですよ、そしたら、寄ってきてくれました(笑)。






 “黒猫に警戒されない自分づくり”(笑)。






 

磁力線には向きがない

 グーグルアースで写し出された世界各地の牧草地帯。

 それを見ると、面白いことに、そこにいる牛や鹿は、放っておけば必ず北か南のどちらかを向くことが判ります。


 このことから、最近になって、動物には地球磁場を読み取るセンサーが備わっているのではないか、との説が有力に主張されるようになりました。


 おそらく、その説は正しいでしょう。ただ私は、動物たちが「北か南のどちらかを向く」というところに着目したいのです。


 一方向だけを向いているのではないのですね、動物たちは。


 北と南の、2パターンがあるわけです。もし、教科書通りに「磁力線はN極から出てS極へ入る」なら、地球そのものが巨大な磁石なのだから、地球の一方の極から発せられる磁力線は、もう一方の極へ向かって伸びていく「片道方向」のものになっていなくてはなりませんよね。すなわち、「向き」は1パターンに限定されてなきゃおかしいですよね。

 でも、実際は、牛や鹿は2パターンの方向を向いているわけです。



 つまり、「磁力線(磁界)にはそもそも向きなんか無い」ってことを私は言いたいのですね。


 要するに、矢印でベクトルを書き示すような概念ではない、ってことなのですよ。



 なぜなら、力やエネルギーは「関係性」だからです。
 物と物の間の絆が、力やエネルギーなのです。


 磁力もそうです。地磁気は、南極と北極の間に働く力なので、南北の間で向かい合っていることはいえても、「北から南へ向いている」とか「南から北へ向いている」とはいえないのです。


 双務的なのであって、片務的なのではありません。



 今回、グーグルアースさんと牛さんたちや鹿さんたちのお蔭で、そのことが判明しました。



 感謝しま~す♪

磁力線は運動していない

 子供の頃、学校で、次のようなことを習いましたよね。


 「磁力線はN極から出てS極へ入る」と。


 これは、磁石の周りに砂鉄を撒くと、まるで極から極へ線が伸びているかのように砂鉄が分布することから、イギリスの物理学者マイケル・ファラデーが、「磁力線」という概念を使ったのがそれの始まりでした。

 そして、それは磁力線が運動しているんだ、と考えられてきたわけですね。

 たしかに、教科書の、N極とN極とを近づけた写真を見てみると、それらの間に散布された砂鉄は、まるで正面衝突を避けるかのように横へ逸れており、磁力線同士があたかも反発し合っているかのようにもみえます。

 ところが、どういうわけか、図書館内のあらゆる物理学の本や図鑑を隈なく調べてみても、S極とS極とを近づけた写真が見当たらないのです!
 
 どの写真を見ても、N極同士が向かい合っているものばかりなのですね。

 どうやら、私の睨んだ通り、磁力の本質は運動ではないようです。東大名誉教授の今井功先生もその立場に立っておられます。

 ここで、S極とS極とを近づけたらどうなるかについて考えてみましょう。

 「磁力線はS極へ入っていく」わけですよね。だから矢印の先端はS極へ突き刺さるように向いている筈ですよね。

 とすれば、S極同士を近づけたとしても、理論上、矢印の先端同士のぶつかり合いは起こらないことになります。

 しかし、実際は、S極同士を近づけると反発し合うし、その間にある砂鉄も両端を一本の線で結んだりはしません。
 つまり、「磁力線」という概念を使ったのでは、S極同士の間に働く反発力を説明できないのですね。

 だからでありましょう、どの本を調べてみても、載っているのはN極同士が向かい合っているものばかりなのです。


 今井教授は、電磁誘導について、ファラデーの誘導法則やオームの法則を使えば、磁力線の運動という概念を使わなくてもすべて説明できることを明らかにしました。

 私は私で、関係性理論で説明を試みていくつもりです。


 説明方法というのは、いくつも存在します。自然現象や実験事実を語る言葉は、一つだけとは限りません。必ずしも従来の常識に合わせなくてはならないわけではありません。

 要は、実験データと一致し、論理的に筋が通ってさえいれば、何だっていいのです。



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 上図③のケースにおいて、矢印は向かい合っていません。ということは、理論上、力と力のぶつかり合いが起こらないわけで、反発し合う理由はないことになってしまいます。
 ①と②に関しては論理的に矛盾しないけれど、③については磁力線という説明方法だと論理に破綻をきたしてしまうのです。

心身一元論

 心と身体は一体のものであり、切り離して捉えることはできません。そうした考え方のことを、「心身一元論」という・・・かどうかは判りませんけれど、とにかく一元論ではあります。


 両者を結びつける概念が、まさにトラック・ダウンです。


 トラック・ダウン理論は、脳細胞と体細胞の連動の仕組みを説く理論です。脳の激しい興奮を引き金として、脳内情報が一挙に全身の細胞のDNAに書き込まれる、とするのが、この仮説の論旨なのだけれど、そうした仕組みがあるからこそ、心と身体(魂と肉体)は切り離せないものであると見做されるのです。


 脳細胞が体細胞にトラック・ダウンされるイメージ。


 心が身体にトラック・ダウンされるイメージ。



 好むと好まざるとに関わらず、心が勝手に身体へとトラック・ダウンされていく。


 そうであるなら、「男の顔は履歴書である」との格言にも、それは見事に整合することになります。

 この格言の意味するところは、男の生き様や考え方といったものは、長い年月を経るうちに徐々に顔に表われ出るのであって、ごまかそうと思ってもごまかせない、というものであります。

 たとえば、心の温かい人は心の温かそうな顔をしていることが多いし、心の冷たい人は心の冷たそうな顔をしていることが多いものなのです。


 なぜ、そのように顔に出るかっていうと、まさに心が顔にトラック・ダウンされるからなのですね。


 トラック・ダウンという仕組みがある限り、それは避けられないことなのです。


 でも、逆にいえば、常に心を磨き続けることで、人は爽やかさや感じの良さを長年に亘り保つことができるのだと、いえるでありましょう。

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シンクロニシティー

 「シンクロニシティー」というのは、自分が頭の中で思い描いていることや関わってきたことの内容と、知人からのメッセージや社会的事実、ニュース報道などの内容とが、一致する現象をいいます。

 それで、そうした一致を自覚したときは、これから自分が進もうとしている道が正しく、そのためのトライアルもうまくいくことが示唆された、と解釈できるのだそうです。


 さてね。5月、6月と2ヶ月間、私は温泉旅館で小説を書いていたのですけれどね(いま執筆後の推敲の段階です)。そのなかで、或る場面で黒猫が出てくるんですけれど、ちょうどいま私、その近辺のシーンを手直ししているんですね。


 それで、おとといの、朝の4時くらいに散歩を終えて自宅近くまで帰ってきたときのことなんですけれどね。

 道路上に、黒猫がいたんですよ。

 体つきや顔のサイズから推察するに、雌猫だと思うんですけれど、彼女は路肩に寝そべって、こちらを涼しそうな黄色い瞳で見ていました。


 私が、「猫ちゃん♪」と呼びかけると、黒猫は、ただ、通常の動作というか、取りたい姿勢を取り、見たい方向を見、したい仕草をするというような、イノセントな反応を示すばかりでした。

 私は思わず、笑ってしまいました。

 それで、去り際に、こう言い残したのでした。









 「マイペースやね~。」








 

パラダイム転換

 長い歴史のなかで、人類の社会的・経済的な営みは、農業メインの時代が約3000年間続き、そのあと工業メインの時代が約300年間続き、そしてそのまたあとに情報産業の時代が約30年間続いてきて、今に至ります。


 農業や工業の時代においては、物品を生産することが仕事であり、ビジネスでした。物さえ作っていれば、人々は豊かな暮らしを手に入れることができていました。そして産業革命以後、そうした営みは機械化・自働化されることで、より発展していきました。

 その結果、大量生産、大量消費、大量廃棄の流れが本格化したのでした。

 人類は、それを解消するため、物品や製品などを在庫として店舗販売することをやめ、それらをインターネット上に情報化して格納することで、多品種少量生産、多品種少量販売のできる産業構造へと変えていったのでした。


 そうした時代の流れは、「量」→「質」、「物」→「情報」といったような図式で表わせるでありましょう。



 要するに、「かたちのあるもの」から「かたちのないもの」へと、人々の価値観がシフトしてきたのだといえましょう。



 それゆえ、物を作って売るだけでは、人々は豊かに暮らせなくなってきたのです。


 社会にとって有益な情報を生み出し、それを価値化することこそが、豊かさを実現する手段となりつつあるのです。


 さて、そうであるならね。癌医療においても、「かたちのあるもの」から「かたちのないもの」へと、テーマが変わっていくことになりましょう。


 この点、従来のメインであった外科手術、抗癌剤治療、放射線療法といったものは、癌細胞という「物」を標的とした対症療法であるといえましょう。

 それに対し、今後のビジョンは、癌という「現象」そのものに着目して、豊富な臨床データから導き出された「病巣マップ」や「トラックダウン・エネルギーの一覧表」というような情報化されたものが中心となっていくでしょう。



 まさに、「物」→「情報」へのパラダイム転換だといえましょう。



 医療の分野でも、そうしたパラダイムのシフトが行われることが予想されるのです。



 「物」から「情報」へ。「物質」から「エネルギー」へ。そして、「かたちのあるもの」から「かたちのないもの」へ。


 その流れは、確実に強まっていくでありましょう。

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新しい医療の幕開け

 トラック・ダウン理論は、将来的にはどのように発展していくでしょうか?


 おそらくは、オーダーメイド医療的なものに結実していくものと思われます。

 どういうことかっていいますとね。トラック・ダウン理論は、脳細胞と体細胞の連係の話です。脳から全身の体細胞へ、情報内容が電気信号に替えられて瞬時に焼き写されるメカニズムについて説明する理論であります。

 要するに、これは「情報刷新」についての理論なのですね。

 その際、過剰なトラック・ダウンが一定期間に亘り継続されると、体細胞のDNAが損傷し、細胞分裂の不具合(コピーミス)を惹き起こすものと考えられます。早い話、それが癌のメカニズムということです。

 ゆえに、トラック・ダウンを適正化してあげることで、癌は治るものと考えられるのです。


 トラック・ダウン理論は、近い将来、(これはほんの一例にすぎないのだけれど)とくに癌医療の分野で技術化され、応用されていくことが予想されるのですね。

 それで、人の体調というのは、生まれ持った遺伝的な特質や普段の生活習慣がどのようなものであるかによって、個人差が出てきます。

 ゆえに、病気や体調不良が現われる年齢、時期、部位などは、人によってさまざまであることになります。


 したがって、そうしたトラブルを解消するための治療方法も、個人個人の事例ごとに千差万別のものになっていってしかるべきでありましょう。


 そこに、オーダーメイド医療が発展していく基礎があるわけです。


 さて、ところでね。トラック・ダウンという現象は、脳の激しい興奮をきっかけとして、そこに格納されている最新の情報内容が、全身の神経を通じて瞬時に伝播していく原理を表わしています。

 先述したように、それには個人差があります。電気インパルスの発生頻度、強弱、時間帯などがどのようなものであるかによって、トラック・ダウンの内容も変わってきます。


 病巣が現われ出る部位や程度が人によって違うのは、まさにそのことに基づいているのですね。

 そもそも、脳内秩序(神経回路網)が、それぞれ全然違います。


 要するに、病名や患部の違いは何に基づいているかっていえば、それは脳内ネットワ一クおよびトラック・ダウンの内容に基づいているというわけですね。


 では、脳内秩序の理想的な形成をすぐに人為的にコントロールできるのかっていうと、それは難しいでしょう。
 残念ながら、それは一朝一夕には遣り繰りできることではありません。

 とはいえ、トラック・ダウンについてなら、意図的に制御することが可能です。

 先述したように、オーダーメイド医療の存立根拠はそこにあるわけだけれど、もし私のこの仮説が的中したとして、一般的に認知されていき、たくさんの癌患者の具体的なデータが集積されていくようになれば、経験則に基づいて、トラック・ダウンと病巣部位との間に一定の相関関係が認められるでありましょう。

 そして、それがやがて数値化されたなら、トラック・ダウンについての一覧表みたいなものも確立されていくでしょうし、人体をかたどった、癌についての“病巣マップ”みたいなものも出来てくる筈です。

 つまり、「身体のこの部位にこのくらいの症状が出たなら、トラック・ダウン刺激をこのくらいのレベルまで減らせばよい」というような感じで、デジタルに、治療の方向性を把握できるようになる、というわけですね。



 そうなれば、おそらく、癌医療は大きな変革を迎えるでありましょう。すなわち、現在主流である摘出手術、抗癌剤治療、放射線療法などは、徐々に廃れていくことが予想されるのですね。


 もしかしたら、そうなったなら、苦しいだけの闘病生活は、人類にとって過去のものとなるかもしれません。


 もちろん、それを待たずして、個人で任意に、アナログ的にトラック・ダウン刺激をセ一ブすることによっても、癌を予防したり回復させたりすることが十分に可能でありましょう。


 “トラック・ダウン医療”の売りは、どちらかというと、そっちでしょうからね。