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橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

カフェ女子

 久しぶりに、イラストを描きました。


 “グラサンおじさん”を描いて以来なので、数ヶ月ぶりということになりますね。




 これです。↓







f:id:hirameking:20161006033646j:plain




 なんか、スマホのカメラで撮ったやつなので、少し光彩不足な感じになってしまいました。


 申し訳ありません。


 あとでプリンターでスキャンして、掲載し直します。



 まだパソコンを再利用できず仕舞いでいるんですよ(とっととしろよ、って感じですよね笑笑笑)。


 それが再開されれば、上の写真のように右上部にカーペットが映り込むこともないでしょうし。

 ちなみに、ロフトのカーペットです。リビングスペースはフローリングなのでね。

 関係ないんですけれど、ロフトの起源については、アメリカの、まだ有名になる前の貧しい美術家たちが、住居費を節約するために大きなガレージとか倉庫などを複数人で借り切って共同のアトリエとし、その中に寝起きするための個人フロアを即席で取り付けたのが、その始まりであるといわれています。
 それが低い位置にあると作品製作の邪魔になるから、そうならないように、高い位置に設置して梯子で登れるようにした、それが長い年月を経るうちにそうした形態として定着した、とまあ、こういうわけなんですね。


 私は、物置代わりに使ってますけど(笑)。



 さて、それでね、タイトルが「カフェ女子」ということなんですけれどね。べつにこの手の構図だと、たとえば「電子書籍リーダー女子」でもいいわけですし、或いは、手に持っているのを猫ちゃんに替えたなら、「ネコ女子」でもいいということになるでしょう。





 あー・・・、
 



 だったら、「伏し目女子」でもよかったか。






 伏し目女子、好きなんですよね~。









 なんか、非日常性を感じるんですよ。



 神秘性といってもいいかもしれません。





 私はそれを強く感じるのです。






 絶対にラウンジ・ポップが似合うだろうな、みたいな。






 さて、それはいいとしてね。今回のイラストは、キース・ヘリングとか、小林かいち風の、わりと力強い感じの、くっきりとした有線描法で描いてみたかったんですよ。

 それで、色使いは、フラゴナールっぽいイメージの黄色使いを取り込んでみたくなって、そうしました。
 でも、実際に彼の絵を見てみると、黄色はあまり使われていないんですけれどね(笑)。

 なぜかフラゴナールって、「黄色」のイメージがあるんですよね、私の中で。なんでだろうな。



 関係ないんだけれど、小林かいち、めちゃめちゃクールだと思います。


 大正時代の女の子たちの心を鷲掴み、みたいな感じだったのも、十分に頷けます。


 でも、近年まで、あまり一般に知られておらず、“謎の画家”っていわれていたんですよね。

 私も、彼のことを知ったのは、ほんの5年くらい前ですし。


 伊藤若沖や曽我蕭白も、このパターンですよね。




 素晴らしいアーティストが、どんどん発掘されていくのは、嬉しい限りです。




 橋本順一くんも、そうあってほしいです(笑)。




























 伏し目女子・・・
































 だい好きだあああぁぁぁーーーーーーー!

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秋の夜長にふと思う

 俺の名は、ルパン三世。かの名高き怪盗ルパンの孫だ。世界じゅうの警察が俺に血眼!とっころがコレが捕まらないんだなぁ~。ま、自分でいうのはなんだけど、狙った獲物は必ず奪う神出鬼没の大泥棒、それがこの俺・・・







































 ルパン三世だ。






 バキュン!、バキュン!・・・

















 バキューーーーーン!









 

 私、このシーンというか、台詞、好きなんですよねぇ。

 あ、これ、CDのことです。映画じゃなくて。なんか、『ルパン三世JAZZシリーズ』みたいなリミックス・アルバムのうちの1枚のなかで、アニメーションの音声が曲中にサンプリングされているんですよ。台詞とか、銃声とかがね。


 「ルパンは諦めないわ。」(峰不二子


・・・みたいなのが、随所に(たとえばオーケストラの演奏中とかに)散りばめられていて、しかもそれが、けっこう調和できているというか、馴染んでいるのですね、音楽にね。

 
 それが面白いし、カッコいいと思うんだけれど、この前、夜に散歩しているときに、その台詞をつぶやいていたら、ちょうどそのタイミングで脇道からお巡りさんが現れたんですよ、パトロール中のね。

 
 ちょっぴり気まずかった(笑)。


 「神出鬼没の大泥棒」とか言っている時に、来るんですもん(笑)。


 しかも夜道だし(笑)。






 さて、ところでね。話はガラッ、と変わりますけれど、最近、すっかり秋っぽくなってきましたね。学生の皆さんは、新学期が始まった頃じゃないでしょうか。それはそれでいいんだけれど、この時期になると、相変わらず、いじめ事件の報道が耳に入ってきたりします。

 当ブログでも、去年このテーマで記事を書いたのを覚えています。

 毎年9月1日は、中高生たちの自殺率が最も高い、とのデータがあるらしいのだけれど、悲しむべきことに、今年9月に入って、またそのようなニュース報道に触れてしまいました。

 そこで、二度とそうした悲劇が起きないようにするために、大人が出来ることはないだろうか・・・・・・と、私なりに、ちょっと考えてみました。 

 親や教師が相談に乗る、或いは、いじめが起きないように監視するということも、ひとつには有効だとは思います。しかし、それだけでは決定打にならないこともまた、残念ながら周知の事実です。
 つまり、システム的な面での解決方法に頼っていたのでは、限界がある、ということになりましょう。
 そこで、こうなったらもう、「いじめとは何か」という本質論にまで遡って、哲学的な面から解決方法を探るしかないのではないか、と思うに至りました。


 その結果、「自尊心」というタームに辿り着いたのでした。


 人には皆、自尊心というものがあります。それは、かいつまんでいうなら、「我が身を愛おしいと思う心」であるということになりましょう。

 したがって、当然のことながら、いじめる側にもいじめられる側にも、どちらにも自尊心が備わっている、ということになります。

 じゃあ、なぜ、人は人をいじめるのか、と考えてみますとね。

 それもたぶん、自尊心を保つためなんだと思います。

 本来、自尊心というものは、自助努力によって高めるべきものであり、そうしたプロセスに身を置くことで喜びを感じられるようになっている筈なんですけれど、一方で、人間というのは、「低きに流れる」「易きに流れる」生き物なのだとも、いえます。
 つまり、手っ取り早く自尊心を満たそうとして、他者を蹴落とす、傷つける、そうした方向に流れてしまいやすい存在なんですよね、人間ってのはね。

 それで、ついつい、他人をいじめてしまうのだと思われます。

 でも、それは本来、卑怯なことだし、暴行罪、強迫罪、強要罪、恐喝罪、傷害罪、名誉毀損罪・・・といった犯罪の構成要件に該当するような、きわめて悪質な行為なんですよね。


 クールなことでもなんでもなく、カッコ悪いことなのです。


 でも、それを声高に叫んでみたところで、いじめがなくならないこともまた、残念ながら、事実です。


 そこで、視点をちょっと変えてみます。すなわちね。



 いじめる側がいちばん恐れていることは何なのか?



 という点を探るのが最も有効なんじゃなかろうか、と思われるのです。

 いじめる人ってのは、手っ取り早く自尊心を満たしたいがゆえに他人を引きずり下ろそうとする、と先ほど述べました。自分が努力して上へ這い上がるよりも、他者を蹴落とせばその必要はなくなり、そのほうがラクに自己満足に浸ることができます。だから、いじめるわけですね。


 そうであるなら、いじめっ子が何をいちばん恐れているかと考えますとね。



 格の違いを見せつけられること。



 これなんですよね。
 たとえば、いじめる人は、相手に悪口を言ったり、嫌がらせをしたりします。その目的は、相手を低い立場に追いやり、相対的に自分の価値を高める点にあります。
 インターネット上で有名人や芸能人の誹謗中傷をする人も、おそらくは同様の理由からでありましょう。

 ということは、つまり、いじめる人はいじめられる側の人を、少なからず警戒している、ということになりましょう。
 すなわち、このままでは自分が色褪せてしまう、自尊心が傷ついてしまう、と思っている、と見做すことができるのです。

 要するに、相手に一目置いている、もっといえば、相手をちょっと格上の存在だと思っている、ということです。

 そうであるなら、悪口を言われる側の人は、悪口を言われて悪口を相手に言い返してしまうなら、相手を喜ばせてしまうだけであることが、みえてきます。
 「な~んだ、偉そうなこと言ってても、コイツも俺たちと同類じゃん。格上でもなんでもないじゃん。」
 っていうふうに、彼らを安心させてしまうわけですね。

 「バ~カ!」と言われて、「バカはお前だ!」とか言い返したりすると、相手は元気になっちゃうんですよ、嬉しくて。
 なぜなら、格上だと思っていた人間が自分と大差ないことが判ったから。

 だからますます絡んでくることになります。



 そう考えてきますとね。嫌がらせやいじめを受けたときにベストだと思しき解決方法は何かといいますとね。



 それは、華麗にスルーすることである、といえましょう。



 相手にしないのが一番なのですね。それが「格上」の振る舞いだからです。

 「格上」の人は、悪口を言われたり嫌がらせを受けたりしても、無視するか、ユーモアたっぷりに切り返すか、まるで西郷隆盛みたいに平然としているか、感謝しちゃうか、褒めちゃうかするだけなのですよ。

 「お陰さまで、いい勉強になりました。ありがとうございます。」ってね。

 そうすると、いじめる側はショックを受けちゃうものと考えられます。
 「やっぱりコイツは、俺なんかと格が違う。向こうのほうが、一枚も二枚も上なんだな・・・。」
 ってなって、それ以上いじめようという気にならなくなっちゃうんですよね。
 っていうか、単純に、つまらないと感じると思います。何を言っても、何をしても、いつもそうした反応しか返ってこないんじゃあ、張り合いがないでしょうからね。


 向こうが100回悪口言ってきたなら、こっちは、200回くらい「ありがとうございます。」って言っちゃえばいいんですよ。
 向こうが1000回悪口言ってきたなら、こっちは、2000回くらい「素敵なボキャブラリーをお持ちですね。」って言ってやればいいんですよ。


 まあ、そこまでいかないうちに、いじめはなくなると思いますけれどね。



 それでも、そうしたトライアルが功を奏さず、いじめが治まらないのであれば、(去年のブログでも述べましたけれど)その学校や職場を辞めて、まるで根無し草のように、自由に、逞しく生きていくというのも、一つの手です。

 それをやっちゃいけないなんてことは、全然ありません。

 自殺するくらいなら、ゲリラ的に、がむしゃらに生きていくほうが、よっぽどましでありましょう。
 学校を中退しても、いまの時代、昔と比べてそれほど学歴は重要視されなくなってきましたしね。 
 自分の頑張り次第で、いくらでも道は開けると思います。
  
 これは、私の個人的な意見です。







 そんなようなことを、まあ、秋の夜長に考えてみたわけであります、ハイ。




 

いつまでも魅了し続ける

 「抽象的なもの」って、「開かれたもの」なのであり、ガチガチの閉じられたものではないから(つまり“遊び”の部分がたくさんあるから)、付け足されちゃうんですよね、いろんな要素がね。

 たとえば、純愛とか、情熱とか、美少女といったもののイメージって、人それぞれあると思うんですけれどね。

 それらは一応、その人が過去の半生において実際に出会った経験があって、それに基づいて形成されている、或る程度しっかりしたイメージなのでありますよ。

 でも、たとえばなんですけれど、仮に、昔(学生時代とか)に好きだった異性がいたとして、その人の具体的な表情や声、仕草、会話内容といった要素は、どこかへ飛んじゃっていて、現在では、抽象化され、美化されたイメージだけが、自分の心の中に残っているわけです。いわば「骨組み」だけがある、みたいな感じですね。


 んで、そういったものは弱点もあって、「開かれたもの」であるがゆえに、他の情報(イメージ)が勝手に付け足されちゃうんですよ。そこが、まあ、弱点っていえば弱点なのであります(見ようによっては長所とも受け取れるけれど)。



 さて、そうであるならね。そのような美しいイメージって、他の美しい、甘く、切ないイメージがどんどんそこに吸収されていって、膨れ上がっていくような、そんな性質のものである、と考えることができるでしょう。



 そこに、「過去」というものが美化されやすい土壌があるといえましょう。



 それは、何年経っても、自分がどう変わろうと、常に美しい姿を保ったまま、いつまでも私たちを魅了し続けるのです。



 たとえば、A子さんのイメージに、B子さん、C子さん、その他さん・・・・・・といった、複数のイメージが同化されるからこそ、それは強いし、美しいし、消えることのない幻のようなものであり続けるのですね。




 一方、「具体的なもの」ってのは、ガチガチに閉じられているから、A子さんのイメージとB子さんのイメージが同化されることはありません。無条件にはね。





 A子さんはA子さんなのです。あくまでもね。






 結局、「過去」も「現在」も、どちらも美しく、素晴らしい、ってことですね!

「平凡な人」と「非凡な人」

 「平凡な人」と「非凡な人」とでは、生き方が違います。

 そればかりか、両者はそもそも、“別の生き物”であるとすらいえるのではないでしょうか。

 ゆえに、仕事のパートナーから友人から、何から何まで、対象となるものの“毛並み”が違ってくるのだと思います。


 両者はまったく生き方が異なるのですね。


 したがいましてね。一方が他方の真似をしたり、参考にしたりしても、無意味である、ということになりましょう。うまくいかないようになっているのです。


 ちなみに、私は、かなりの変人ですね。
 変態じゃあないですよ。変人ね。
 変人と変態は、似て非なるものです。
 変態って、まあ、彼らだって一生懸命生きているわけだから、こんなことを言っちゃうと可哀想かもしれないけれど、非建設的なんですよね。何も生み出さない。残念ながらね。
 一方、変人ってのは、生産的なんですよ。
 けっこう、いい仕事をしたりするんですよ。

 そういう観点では、私は自他共に認める変人だし、私のような変人は、世界じゅうどこを探しても他にいないでしょう。


 いてたまるか(笑)。 


 そんなわけで、普通の人の生き方を採り入れても、私には合いません。根本的にね。

 その「合わない」度合いがどのレベルのものであるかが、お恥ずかしながら、いままでの私はいまひとつ理解できていませんでした。

 実際は、想像を絶するほど、「合わない」んだと思います。なぜなら、両者は、まったく別の生き物、まったく別の世界の住人同士だからです。

 これは余談なんですけれど、とある実業家の方が、著書か何かのなかで、じつに印象的なことをおっしゃっていました。


 「私は嫌いな人がいない。ただ、合わないだけだ。」と。


 めっちゃクール(笑)。


 なんか、共感できちゃいます。


 さて、話を元に戻しますとね。平凡な人と非凡な人とでは、お互いに噛み合わないという現象が起きてきます。なぜなら、両者は生き方がまったく違うからです。でも、これは、どちらが良くてどちらが悪い、という話ではありません。これは、「向き・不向き」の話なのです。「優劣」の問題ではないのですね。

 平凡な人に出来ることは非凡な人にはできないし、非凡な人に出来ることは平凡な人には出来ないのです。
 それはまるで、植物が二酸化炭素を吸って酸素を吐けるけれど、二酸化炭素を吐いて酸素を吸うことが出来ないことと似ています。或いは、動物が酸素を吸って二酸化炭素を吐けるけれど、酸素を吐いて二酸化炭素を吸えないことと同じです。


 相手に出来ることが自分に出来なくても、また、自分に出来ることが相手に出来なくても、それはきわめて自然なことなのであります。


 もちろん、ある程度の歩み寄りは出来るでしょうけれど、私が普通ではない世界でしか生きられないのは、そうした理由に基づいているのです。


 私は、そっち一筋で頑張れば、すべてうまくいくだろうし、それはとても幸せなことなのであります。  

引き締め効果によるクールさ

 いろいろなCD(とくに昔のもの)を聴きまくっていたんですけれどね。それで、なんでもいいのだけれど、たとえば、ザ・ブルー・ハーツさんの『パンク・ロック』を久しぶりに聴いていたら、改めて、いいものはシンプルに出来ているんだな、と思わされたのでした。

 とくに間奏部分がそうでした。

 作品の各構成要素がエネルギッシュで、それらの組み合わせが相性の良い、バランスの取れたものであるなら、鑑賞者に対して高水準の刺激を提供することができるのだと思います。

 この原理は、音楽に限らず、あらゆる分野の作品づくりにおいても当て該まるでしょう。


 ま、早い話、エネルギーなんですよね、結局ね。


 作り手の持つエネルギーが作品に乗り移る営み、それが芸術というものなのであります。
 作者がパワーに満ち溢れた人間であるなら、その人の造る作品は、オートマチックに素晴らしいものになるのですね。
 「天才」であるとは、そういうことだと思います。

 この点、絵画製作におけるパワーとは一体何かと考えますとね。それは、つまるところ、筆線であり、クロスハッチングであり、或いは、レイアウト的なことなのだと考えられます。その部分を頑張ることに尽きるのです。ひたすらにね。


 さて、そうだとしますとね。私はいま、小説の原稿を書いているわけですけれどね、この、小説執筆におけるパワーとは何かといいますとね。
 それは、構成要素的な部分をみるなら、結局、知識、教養、論理的思考力、発想力、表現力、ボキャブラリーなどである、ということになりましょう。
 その部分を目一杯頑張ればいい、というわけですね。


 ちなみに、手書き原稿が完成したため、いま私は、Wordで原稿のファイルを作成しているのだけれど、文体がワープロになっただけで、文章が引き締まったように思います。

 手書きのときには感じなかったのに、ワープロに起こしてみたら、なんか、急に、文章がクールになったような気がしたのですね。
 自分の文章なのに、自分のものじゃない、みたいな。

 これは予想していなかったことですね。

 原稿さんは、ワープロに起こしてあげたほうが喜ぶのだ、ということに気付いたのです。




 面白いですよね。




 論文を書いたときもそうだったのだけれど、物事って、やってみてはじめて判ることが、ほんと、多いですね。




 

 ちなみに、パソコン利用を再開しようかどうか悩んでいたわけですけれど、モバイルのWordアプリからだと、どうやら数式の入力ができないようなので、(のちのちの論文執筆を睨んで)やはり近日中にそちらを再開させたほうがいいだろうな、と思いました。








 


                    

わがままアーティストⅡ

 南方熊楠博士の研究スタンスって、潔いと思います。
 すなわち、自分が生きているうちは、ひたすら研究に没頭し、すべての時間をそのためだけに費やす。
 研究成果をまとめたり公表したりはしない。
 
 要するに、そういった、研究そのものとは直接関係のない、付随的な面での仕事に関しては、自分の死後、後世の人たちが勝手にやってくれるだろう、という考え方なのです。

 自分は研究専門なんだ、研究オンリーで生きていくんだ、雑用なんかしていたら時間が勿体ないんだ、そういう覚悟を持っていたのですね。

 実際、その考えの通り、彼の残した膨大な量の研究資料は、いま現在も、専門の整理スタッフの手によって編纂作業が続けられています。

 まさに、時代を超えた共同作業が行われているというわけなのです。


 人の一生は短い。

 一人の人間が生きている間に成し遂げられる事業は、それほど多くはない。

 また、人は一人では生きていけない。必ず、他者と助け合って暮らしていかなければならない。


 社会というものは、分業システムで成り立っており、前々回のブログ記事でご紹介した例でいうなら、焼きそばパンの原材料となる小麦を栽培する農家さん、それを加工するパン工場さん、出来上がった製品を運ぶ流通業者さん、そしてそれを店頭で販売する小売り店さん、といったように、様々な専門的メンバーの“合わせ技一本”によって、クオリティーの高いものが作られる仕組みになっています。


 私は、学究肌というか、職人気質なタイプであり、(みんなでチームを組んで和気あいあいと仕事をやる楽しさは理解しつつも)できることなら、一人で、朝から晩までアトリエに閉じ籠もり、ひたすら絵を描き小説を書き論文を書き、というふうに、物づくりだけをやって過ごしていたい。

 余計な雑務に時間を奪われたくない。

 人の指図は受けたくない。

 自分のペースで自由に仕事をしたい。


 まあ、誰だってそうでしょうけどね、多かれ少なかれね。


 でも、私は、わがままアーティストなので、既に理論的研究を2つ完成させ、長編小説を1本書き上げ、新しいアート・フォームを考え出したということに味をしめ、2作目3作目、2本目3本目…というふうに、これからもより一層、物づくりに励んでいきたいと思っているのです。


 量子力学を覆すという私の目標も、まだ未達成ですしね。

 しかし、私が万物理論を完成させたことで、それの命はもはや風前の灯火となってきましたけれどね。


 さあ、あともうちょっとです!




 量子力学・・・


 






 





 ・・・ぶっ潰しませんか!(長谷川博己さんふうに)













 で、それらがいわば本業であり、その他にもまだ、副業的な仕事があるわけです。











 時間が足りない!




















 1日24時間じゃ、とてもじゃないけれど、足りない!









 いずれ、副業からは足を洗い、本業だけに専念するようにしたいですけどね。





 そんな時、もしかしたら、南方熊楠博士流の割り切りが必要になってくるのかもしれません。

わがままアーティストⅠ

 感性をインスパイアさせるために、あらゆることをする。
 散歩に出掛け、道中、綺麗な景色を見つけたら写真に収め、おしゃれなお店があれば入る。
 本を読み、映画を観、音楽を聴く。
 そしてアイデアを思い着いたらメモを取り、暇をみては運動もする。

 朝から晩までアトリエに閉じ籠もり、絵を描き、小説を書き、論文を書いて、彫刻も彫る。


 ただそれだけの毎日。


 なんて素晴らしい日々でありましょうか。


 そして、会いたい人には会い、会いたくない人には会わない。



 まさに、理想的なわがままライフです。



 それを実現するに至るまでには、いくつものハードルが待ち構えているでしょう。

 でも、いいのです。

 それを築き上げる過程が楽しいのです。



 私が生きているうちに自分の作品が受け入れられる・受け入れられない、或るいは、売れる・売れないは、(究極的には)関係ありません。

 もちろん、受け入れていただけるなら、それはとても嬉しいことです。

 ただ、最近、或ることで万策尽き果てた状況になり、もしかしたら自分が世間的に評価されて有名人にでもならない限り、事が進まないのではないかと、気に掛かってきている部分もなきにしもあらずなので、それに向けてひたすら頑張るしかない、とも思い始めています。

 その或ることとは何かといいますと、或る方へのメッセージ送付です。
 また、その内容とは何かというと、その時じゃないと意味がない、といった類いのものです。たとえば、クリスマスの日に「メリー・クリスマス!」というような感じのメッセージですね。真夏にそれを言っても意味ありませんよね。つまりはそういう類いのメッセージということです。

 私はどうしてもそれを伝えたいのです。


 この点、その方は、SNSやブログを開設なさっているので、コメント欄を通じてメッセージを書き込むこと自体は、可能です(実際、たくさんの読者やフォロワーといった方々が、そうしています)。


 しかし、私はそれをしたくありません。
 なぜなら、わがままアーティストだからです。

 なんか、大勢の人の中の一人みたいな感じで埋もれてしまうのが、イヤなのです。
 直接面と向かって言いたいことも言えず、大勢の中に埋もれるくらいなら、沈黙したほうがましである、と思ってしまうんですね。

 自分でも、ほとほと手を焼いております(笑)。


 自ら墓穴を掘るようなことをしてしまっていますからね(笑)。




 でも、イヤなものはイヤなんだぴょーーーーーん!









 ぴょん、ぴょん・・・













 ぴょーーーーーーーーん!









































































































 P.S.


 私は先程、「万策尽き果てた」と申しました。でもそれは、あくまでも、従来の枠組みに縛られている限りでは、という意味においてです。
 したがって、その従来の枠組みを取り外したなら、まだ「万策尽き果てた」わけでは必ずしもない、ということになります。
 つまり、いろいろな方策が考えうるのであって、そこから新たな展開が生まれてくることも十分にあるのですね。
 ただし、そうはいっても、「従来の枠組み」を取り払うのは、じつは容易ではありません。
 当ブログ『橋本順一の哲学』は、「公共性に資するような記事のエントリー」という方向性で運営されています。それゆえ、公共性とあまり関係ない私的なメッセージの発信は(一応)避けるべきである、とのスタンスに立脚しているのですね(どうかお許しください)。

 従来の枠を破ることは、そうした運営方針に抵触するおそれもあるのです。
 わがままアーティストたる私は、やはりそういうことは、気が進みません(現時点ではね)。



 繰り返しますけれど、












 イヤなものはイヤなんだぴょーーーーーん!






 ぴょん、ぴょん・・・



















 ぴょーーーーーーーん!