橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

目的と手段を履き違える人は二流である

 村上隆さん*1によると、日本の美術教育の遅れている点は、「表現の目的が大事であることを教えていないこと」にあるのだそうです。

 大学や高校の先生の主観的芸術論と技術しか教えないから、一流のアーティストが育たないんだ、との考え方であります。

 たしかに、そういう面もあるでしょう。

 かつてマイケル・ジャクソンは、こう言いました。

 

 「頭の中でカウントを取りながら踊るダンサーは二流だ」と。

 

 その意味するところは、要するに、そういうダンサーの踊りは、「ダンスのためのダンス」になってしまっている、ということなのですね。

 マイケルは、ダンスの目的を見失っているから二流なんだ、と言いたかったのでありましょう。

 それに対し、一流のダンサーというのは、「表現のためのダンス」を踊ることができる、というわけなんですね。

 そもそも、「ダンス」というものは、人間の体の動きを利用して喜びや悲しみなどの感情を伝えるための、パフォーマンスなわけです。

 だから、本来、ダンサーは、「表現するため」に踊っている、ということになるのです。

 ところが、頭の中でカウントを取りながら踊るということはどういうことかっていえば、喜びや悲しみを伝えることを忘れて、ダンスとしての体裁を守ろうとしてカウントを取っている、ってことになりますよね。

 すなわち、「ダンスっぽく見せるため」に踊っている、というふうに解釈できるわけです。

 それをマイケル・ジャクソンは、「二流だ!」と批判しているんですね。

 要するに、目的と手段を履き違える奴は二流どまりだ、と言っているわけです。

 

 芸術も同様です。

 たとえば、何のために絵を描くのか、という点さえ判っていれば、自ずと表現すべき内容は定まってくるのであって、それに必要な技術力など勝手に身についてゆくのですよ。

 つまり、「表現のための絵画」に取り組んでいるうちに、表現力が自然にUPしていく、ということなんです。

 しかし、日本の美術教育では、「絵画のための絵画」しか教えられないのが実情です。

 だから海外ではなかなか通用しないんだ、とまあ、そんなようなことを村上隆さんは指摘しておられるわけですね。

 それはホントまさにその通りなのだけれど、ただ、仮に、「表現のため絵画」こそが重要だと気付けたとしても、実際それを作品として形象化できるかどうかは、才能によるところが大きいと思います。

 したがって、いくら指導者が教え込んでも、美術史に残れるかどうかは才能次第なのであって、教育で一流アーティストを多数輩出できるなどと考えることは、見立てとしては、やや甘いのではないか、という気はしてしまいます。

 表現衝動は、教えてどうこうなるものではなく、もともとその人の中に備わっている、オリジナルなものなのです。

 

 まあ、ここでも、「個性」が大切である、という点に帰着するんですよね、やっぱりね。

 

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  「個性」というテーマを扱った記事も、いくつか載せておきます。

 

hirameking.hatenablog.com

 

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*1:現代美術の世界的巨匠。サブカルチャーをファイン・アートの筋道の中に組み込むという、画期的な美術様式を新たに生み出しました。