「苦しみ」とは、協力拒否だと結論付けましたよね(過去記事を参照)。
人は、自分の想い描いているシナリオがあって、それを実現するために他人へ協力を要請するのだけれど、多くの場合、拒否されてしまいます。
それが「苦」である、と考えられたわけです。
人生とは、そのことの連続です。つまり、「苦」だらけである、ということですね。
では、なぜ、他人から協力を拒否されると苦しくなってしまうのでしょうか?
それはですね、まず、頭の中で何かを期待するわけですよね。
あれをしてほしい、これをしてほしい、こうなったらいいな、ああなったらいいな、というふうな「期待」を持ちます。
それが「欲」なわけです。
そして、脳の中でそうした「期待」を持ったとき、既に神経細胞同士のネットワーク化が始まるんじゃないでしょうか。
いわば、「想いの物質化」ですね。
本人が「期待」すると、まだそのような現実をコードする情報は入力されていないにもかかわらず、イマジネーションだけで(つまりバーチャルな情報だけを基にして)、神経回路網ができ始めると考えられるのです。
ただし、これは、まだ実際に実現されたわけではないので、あくまでも、未完成の、途中段階のネットワークにすぎません。
とはいえ、それなりの建設コストをかけて、或る程度のものは築きかけています。
そんなとき、相手から協力を拒否されてしまいます。
「例の件ですが、やっぱり、お断りします。」
と、言われてしまうのです。
すると、どうなるでしょうか?
せっかく途中まで出来かけていたネットワークを、捨てなければならなくなるのです。
夢や希望を叶える別の方法を採るにせよ、それはまたゼロから築き上げねばならぬ別の回路です。
従来の回路は台無しになるし、新しい回路を作るにしたって、また膨大な労力がかかる・・・・・・。
そう思えば、誰だって途方に暮れますしし、がっくりきてしまいます。
それが、「苦しみ」の正体なのですね。
回路を失う苦しみと新たに作業を負担する苦しみ。
これが一度に襲い掛かるのです。
いわば❝二重苦役❞なわけです。
苦しいのは当然でありましょう。
この点、仏教の狙いは、「期待」を初めから放棄してしまえば脳内で回路づくりが行われることもないため、「回路を失う苦しみ」も生じようがないから、きっと安心できるであろう、という点にあります。
欲を捨てるということは、「回路づくりを捨てる」ということだといえましょう。
しかし、苦しいからといって、必ずしも夢を諦めなければならないわけではありません。
回路なんて、本人がその気になれば、いくらでも作れるのですから。
協力拒否をされてもされても、いつかそうされないような回路を最後まで作り上げれば、それでもう、こっちの勝ちなのです。
今まで途中放棄してきた膨大な数の回路の墓標だって、きちんと学習材料となり、役に立っているのです。
人は訓練次第で、「へっちゃら回路」を脳内に定着させることができるのですよ。
何を言われても、何をされても、へっちゃら。
まだまだ余裕があって、苦難にも十分に耐えられる。
そういう脳を作り上げたってかまわないのです。
べつに、欲を捨てるだけが人の道であはありません。
頑張ればいいのです。力の限り。
それで充分に、人は楽しく幸せに暮らしていけるでありましょう。
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併せて、こちらの記事も、ご参照ください。