橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

世界の再現

 お釈迦様の理論によると、人間の脳というのは、「世界像作成装置」である、とされています。

 つまり、脳ってのは、「脳内世界像を作りだす器官」である、ということになります。

 そう考えると、「現実世界」と「脳内世界像」とは、厳密には別である、と捉えることも一つにはできるでありましょう。

 また、頭の中で感じる印象は人それぞれなんだから、或る同一の対象についても、「Aさんの脳内世界像」と「Bさんの脳内世界像」は必ずしも一致するわけではない、との見解も、当然出てくることになります。

 しかし、なんですよね。

 一概にそうとも決めつけられないんじゃないでしょうか。

 言霊の力について検討してみると、やはり、「言葉」というのは「世界像」であることが判ってきます。

 たとえば、Aさんがリンゴを見て、それを「リンゴだ」と認識する。すると、脳ってのは「世界像作成装置」なのだから、頭の中にそれに対応する「世界像」(リンゴの世界像)を形成することになる。

 その形成過程はとても忠実なものであり、「現実世界」の物体をそっくりそのまま再現するものと考えられます。きわめて忠実に、です。

 だから、「現実」と「脳内世界」との間に不一致は生じません。

 

 両者は必ず一致するのです。

 

 ということは、Aさんの頭の中でも一致するし、Bさんの頭の中でも一致することになるのですね。「リンゴだ」と。そして、もしそれが赤ければ「赤いね」と。

 ということは、「Aさんの脳内世界像」と「Bさんの脳内世界像」は合致する、と考えるのが妥当であることになります。

 「言葉」というものは、過去記事でも述べましたけれど、一種の「有機化合物」である、と捉えました。

 私は、「現実世界」において物質同士が有機的に組み合わされるのと同様に、人間の「脳内世界」でも、特定の音声同士が化合することで「言葉」になる、と考えたのでした。

 

 物質と音声とはきちんと対応している、と結論付けたのでした。

 

 なぜなら、どちらも、「世界を切り取ったもの」だからです。

 要は、「断片」ってこと。

 

 物質というのは「現実世界」を細かく切り取った「断片」であるし、言葉も同様に、音声全部をひっくるめた「音声世界」を、「あ」だとか「い」だとかいう、細かい「断片」として切り分けたものなのです。どっちも、「断片」であるという点で共通しているのですね。

 

 だからこそ、そこにはきれいな対応関係が認められるのであります。

 

 そして、物質同士がくっついて化合物になるのと同様に、音声同士もくっついて化合物になるんです。

 それが「言葉」なんですよ。

 

 それで、ここからが重要なポイントになるんですけれど、人間が「現実世界」における特定の物体を認識してその認識通りの「言葉」を発するということは一体どういうことかっていうと、それは、自分の頭の中に「現実世界」をコピーする、ってことなのです!

 

 つまり、「言葉」を喋るってことは、「世界の再現」をしている、ということになるんですよね。

 

 まるでレオナルド・ダ・ヴィンチが「絵画とは世界を画面上に再現することだ」と言ったかのように、「言葉」とは「世界を脳内(および脳外)に再現すること」を意味しているのです。

 

 だから、Aさんがリンゴを見て「リンゴだ」と言うことと、Bさんが同一のリンゴを見て「リンゴだ」と言うことは、認識のうえでは全く同じなのであります。

 情報の内容は、完全に一致しているの。

 そこにズレは無いの。

 なぜなら、そうした情報を脳内で形成する課程は、きわめて精密かつ正確だからです。

 物質を化合するのも音声を化合するのも、「世界を切り取ったもの」を組み合わせることであるという点に変わりはないからです。

 

 さて、そう考えてきますとね。

 「言葉」というのは「有機化合物」であり、「世界を再現したもの」だったわけだけれど、そうなってくると、肯定的な言葉だろうと否定的な言葉だろうと、いったん喋った以上、必ず、発した言葉通りの「世界像」を形成してしまう、ということになるでありましょう。

 

 どんな内容も、確実に脳内で作成してしまうんですね。

 そこにズレは一切生じません。

 

 そうした確実性こそが、「言葉の力」、すなわち「言霊」なのであります!

 

 絶対に裏切らないものなんですよね、コトバってね。

 

 必ず、喋った通りの内容を再現します。

 

 プラスの内容を喋ればプラスの「世界像」が、マイナスの内容を喋ればマイナスの「世界像」が、それぞれ頭の中に形成されるのです。

 

 だからこそ、私たちは、慎重に、じっくり「言葉」を選んでから喋る必要があります。

 そうしないと、エラいことになります。

 侮れないんですよ。

 決して馬鹿にできません。

 

 絶対に見逃すことのない着実性を「言葉」というのは持っているのであり、昔の人はそこに畏敬の念を抱いて、そうした強力な特性のことをわざわざ「言霊」と呼びました。

 

 何のパワーも無いのに敢えてそんな命名をしたりはしないものです。

 彼らは「言葉」の偉大な力を知っていたからこそ、「言霊」と名付けたのでありましょう。

 

 

 我々現代人も、そのことをもう一度、認識し直してみたほうがよろしいのではありますまいか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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