橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

プリミティブ・パワー

 無茶をすると、人間は体調を崩してしまいます。

 熱を出して寝込んだり、頭痛や腹痛に悩まされたりします。

 人は、そのことを通じて、いままでの生活習慣を改めたり、不摂生を控えたりして、反省することを覚えていきます。

 それが学習効果を生み、次回から同じ過ちを繰り返さないための抑止力になってゆくのです。

 これはべつに、誰かから教わるというわけでもなく、生きていくなかで、自然に身につけていくことができるもの。

 人間は、本来、そうしたプリミティブな学習能力を持っているのです。

 

 言い換えるなら、自然が、生きるコツを教えてくれる、ということでもあります。

 

 どういうことかというと、やっていいこととやっちゃいけないことの区別が、日々の生活を通じて、自然に学べる、ということなのですね。

 無茶をしちゃいけないんだ、ということが、いつの間にか判るようになるんです。

 

 ところが、現代の、複雑に権利・義務関係の絡み合った多数当事者コミュニティーの中で暮らしていると、だんだんそうしたプリミティブ・パワーが曇っていき、やっていいこととやっちゃいけないことの区別がつかなくなってしまうのです。

 

 あまりに物資が溢れ、インフラが整い過ぎると、人はその便利さ・快適さに溺れるあまり、他者を軽んじるようになり、物の有難みに対する感覚が麻痺していきます。

 他人との間の距離感をうまく図ることが出来なくなります。

 「ありがとう」も「ごめんなさい」もろくに言えないし、初対面の人や見ず知らずの人に対して失礼な言動を取っても平気であるような、そんな横柄な人間になっていきます。

 

 ❝信賞必罰❞の原則が崩れていってしまうのです。

 

 お金についてもまた、同様です。

 たとえば、1億円を持っている人がいたとしましょうか。

 それを本人が、しばらく手元で保有しておきたい、と考えた場合、「金銭」として保管することができる、というのが、お金の強味だといえます。つまり、1億円ぶんの資産を「通貨」として保管できる、ということなのですね。

 ところが、そうじゃなく、もしも1億円ぶんの資産を「柴犬」として保有するとしたなら、どうでしょうか?

 仮に1匹あたり10万円で購入したとすると、その保有頭数は1000匹に及びます。

 すると、そのための場所と小屋が必要になります。さらに、そのための維持費も掛かります。餌代も掛かります。

 これでは、コスト・パフォーマンスの原則からいって、効率が悪すぎますよね。

 また、ワンワン吠えて騒音問題になるし、糞尿処理の面でも手間暇が膨大に掛かります。もしかしたら異臭問題も出てご近所との間でトラブルになるかもしれません。

 したがって、「価値あるものの保有」という観点からは、「柴犬って向いてねーな!」と判るようになるんです。

 つまり、プリミティブな、自然のままの世界で暮らしていると、柴犬を1億円ぶんも保有するべきではない、ということが肌で判る、ってことになるのですね。

 だからやがて、じゃあ「柴犬」はやめて「じゃがいも」にしようか、とか、「米はどうだろう」、「玄米の方がいいな」、「金塊ならもっと安定しているな」といった感じで、だんだん無茶をしなくなっていき、遂には、「貨幣」という便利な保有媒体に辿り着くわけなんですよ。

 

 ところが、これも行き過ぎると、不都合が生じてきます。

 電子マネーやクレジットカード、口座振替などのシステムは、たしかに便利な仕組みではあります。

 しかし、手続きが面倒だったり、お金の流れが可視化されないがゆえに使い込みに対してストッパーが外れやすかったり、個人情報の悪用のリスクが高まったり、というふうに、いろいろストレスフルなものでもあると思うんですよ。

 じつは現金決済がいちばんバランスがいいんじゃねーの?、という気すら、してしまう時もあります。

 

 いずれにせよ、プリミティブな世界で暮らす限りでは、人はそれほど暴走しないもんなのですね。

 

 でも、便利で快適で複雑化した社会で暮らしていると、人は❝自然界のストッパー❞が作動させられず、無茶をしてしまいがちになるものなのです。

 

 やはり、信賞必罰をキープしやすいような、プリミティブでシンプルな生活感覚を持つことが大事なんじゃないでしょうか。

 

 

 いいもんはいい、ダメなもんはダメ、でいいじゃないですか!