橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

花鳥風月

 雪舟*1は天才です。

 彼ほど才能に溢れた画家は、日本美術史上でも稀でしょう。

 しかし、意外にも、欧米のアート・シーンで、彼を高く評価しているという話はあまり聞いたことがありません。

 写楽*2北斎*3は絶賛されているのに、雪舟の絵に高値が付けられたとかいった話はそんなに出てきません。

 それは一体、なぜなのでしょうか?

 

 ズバリ、人間にフォーカスを当てていないからです。

 

 水墨画というのは、「山水図」そのものであって、要するに、自然の山や川、動植物等にフォーカスを当てる美術様式なのですね。

 絵の中に人が登場してこないわけではないけれど、登場するにしても、それは周囲に溶け込むようなかたちでしかなく、完全に「自然の一部」という位置づけがなされているのです。

 

 雪舟をはじめとする水墨画のアーティストたちは、人間にフォーカスを当てるのではなく、いわゆる「花鳥風月」の美しさに着目しているのであって、そうであるがゆえに、欧米のアート・シーンでは評価がいまひとつであるような気がするのです。

 

 でも、だからといって、雪舟が天才でないとはいえません。

 欧米流の評価基準に無理して乗っかる必要は、これっぽっちもありません。

 

 だいいち、欧米人は、人間に過剰にフォーカスを当てすぎるきらいがあります。

 訳の判らぬ天使たちに周りを囲まれながら裸の男女がワイワイやっている様子が、写実的な筆遣いで描かれている、みたいな、そんなのばっかりでしょう。向こうの芸術はね。

 「よっぽど人間が好きなんだな」、「よっぽど人間至上主義に陥っているんだな」ということが、痛いほどこちらに伝わってきます。

 

 まあ、それはそれで独特のカッコ良さがあるし、また、或る意味で当然のことでもあるんですよね。

 どういうことかといいますとね。 

 欧米人の思想的なバック・ボーンというのは、もともとキリスト教です。

 

 キリスト教というのは、砂漠で生まれた哲学です。

 

 だから、「花鳥風月」に彼らの興味が向かうわけがなく、人間中心主義、人間至上主義的な傾向が、あらゆる場面で強く出てくることになります。

 

 砂漠のど真ん中で人間が逞しく生き延びていくためには、己の器量と才覚のみが物を云うのであるから、そこでは当然、人間同士の欲望と欲望、エゴとエゴとがぶつかり合う、狩猟民族社会が形成されるようになります。

 ハンターたちのひしめき合う自由競争原理が、そこにあります。

 

 だからこそ、生き残るためには富を勝ち取り、力を誇示し、権利・自由を主張しなければならないのですね。

 

 そうであるなら、個人の興味は、論理必然的に、人の心とか欲望といった方向へ向けられていくことになるでしょう。

 欧米社会における個人主義的価値観は、そこから派生してくることになります。

 

 だから欧米では、神様が人間のルックスをしているのですよ。

 

 日本古来のアニミズム*4や、八百万の神の信仰、といった方向になど、行くわけがないんです。

 欧米では、人間同士の心理戦に勝たなければならないという差し迫った緊迫感から逃れられない以上、どうしても人間研究を深め、欲望や心の動きといったものに精通しておかなければなりません。

 欧米社会で生きるということは、そういうことです。

 

 だから、そこでは当然、人間中心主義、人間至上主義的な思想が定着しやすくなります。

 

 それゆえ、宗教はもちろんキリスト教を信仰することになるし、芸術も当たり前のように宗教画や人物画が中心的な芸術様式となってくるのです。

 そうしたDNAが、いまも欧米のアート・シーンに深く根付いているのであります。

 

 一方、東洋人の思想的なバック・ボーンは、仏教です。

 

 仏教は、森から生まれた哲学です。

 

 お釈迦様が菩提樹の木陰で悟りを開き、生み出しました。

 

 森には、豊かな生態系が混在し、様々な種類の動植物たちが、互いに関連し合い、影響し合い、調和しながら、一つの秩序の中で共存共栄しています。

 

 まさに、「花鳥風月」の世界がそこに展開されています。

 

 だからこそ、仏教の本質は、「縁起」を重視する「自然との共生関係」という点に収束していくのですね。

 人間は他の動植物に優越する万物の霊長である、みたいなキリスト教的人間至上主義ではなく、人間も動植物も、生きとし生けるものすべてが、同格的な位置づけをなされるべきであり、もちつもたれつの共存共栄関係を築きながら心清らかに生き、そして死んだなら、その後はまた母なる大地へと還ってゆくという、輪廻転生的な思想が定着しやすくなるのは、自明の理なのであります。

 

 それが証拠に、原始仏教では、「人」よりも「自然の理法」を重視していました。

  人の姿形をした仏像に向かって手を合わせるといったような信仰スタイルが生まれたのは、ずっと後世になってからのことです。 

 

 したがって、仏教というのはもともと、人間中心主義ではなく、自然との付き合い方を説いた実践理論であるというのが、より正確なところでありましょう。

 

 宗教というよりは哲学といってよいでしょうね。

 だから、当然のごとく、神様が十字架に掛けられて苦悶の表情を浮かべている姿を見て狂おしく祈りを捧げる、みたいな信仰スタイルには絶対にならないのです。

 自然信仰とか、アニミズムといったような、「八百万の神」的な多神教スタイルへと収束していってしかるべきなんですね。欧米みたいな一神教にはなりようがありません。

 人間至上主義ではないからです。

 しかし、その反面、人間にフォーカスを当てない日本美術の表現は、欧米人の心を揺さぶらないため、まったく評価されない、という致命的な弱点を抱え込んでいくことにもなります。

 天才画家・雪舟が欧米で評価されない理由は、そこにあったのです。

 

 でも、そんなことはどうだっていいじゃないですか。

 欧米の評価基準など無視し、日本は日本で、独自の新しい評価基準を設けることだって不可能ではない筈です。

 

 日本の文化を歴史と絡めて再評価し、理論武装していけばいいだけのこと。

 

 欧米美術に引けを取らないくらいの権威付けを日本美術に与え、荒くれ者のような日本人美術家たちの血をたぎらせ、煽り、日本アート界を活性化させる。

 エネルギーをそこだけに一点集中させれば、かなり大きなムーヴメントになるかもしれません。

 

 美こそが大事である、美しけりゃ何でもいいんだ、との基準が客観化されるだけで、多くの美術家の気持ちは救済されることになるでしょう。

 

 なぜなら、行き詰まらなくて済むからです。

 西洋美術史の文脈と抱き合わせの評価基準を作ってしまったからこそ、美術家たちは次から次へと新しい仕掛けやパフォーマンスを考えなければならない羽目になったのですよ。

 だから、ネタが尽きてくると、マルセル・デュシャン*5のように便器に自分の名前をサインしただけの作品を展覧会に出品するといった、末期的症状が出てきてしまうんじゃないでしょうか。

 

 いまこそ、芸術は、歴史との蜜月関係を清算する時期なのではありますまいか。

 

 いままでの基準を根底から覆し、革命を起こすのです(大袈裟ですけど)。

 

 まるで、コペルニクスが天動説を否定して地動説を唱えたかのように。

 アインシュタインニュートン力学を覆して相対性理論を打ち立てたかのように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 併せて、こちらの記事も、ご覧いただければ幸いです。

 

hirameking.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:室町時代の僧侶で、画家。

*2:東洲斎写楽。江戸時代の画家。浮世絵で有名。

*3:葛飾北斎。江戸時代後期の画家。西洋美術に多大な影響を与えた日本美術界の巨匠。

*4:日本に古くからある土着信仰のこと。精霊崇拝。

*5:フランスのイケメン美術家。作品とは何か、を問い掛けるような美術様式を発表し、物議を醸しだしたことで有名。

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