橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

ゴッホは存命中に何をすればよかったのか

 ゴッホはなぜ、溢れんばかりの才能を持ちながら、存命中にはまったく評価されなかったか、について、少し考えてみました。

 ひとつには、彼の死があまりにも早すぎたことも、理由として挙げられるでありましょう。

 30代の若さでしたからね。もし彼が、90歳くらいまで長生きしていたなら、その間に評価されていたかもしれません。

 モディリアーニも、このタイプですね。

 成功するためには、長生きすることも、条件になってくる、といえましょう。

 

 ゴッホは、旅立ちが早すぎたため、成功できなかった。

 ただ、それ以上に、彼の作品が独創的で、前衛的すぎた、ということのほうが、大きいと思われます。

 要するに、あまりにもレベルが高すぎて、庶民の思考範囲をはるかに超えていたのでしょうね。

 つまり、大衆にとっては、「ズボラ癖」を発揮できるような対象ではなかったということです。

 大衆というのは、或る意味、手抜きしたくて手抜きしたくてウズウズしている存在だといえます。

 したがって、レベルの高い対象を目の前にして、あれこれと思考を巡らすようなことはイヤでイヤでしょうがないのだと思われます。

 そんなことをしたら、労力を使うから、エネルギーを損してしまう、疲れてしまう、そう思い込んでいるんじゃないでしょうか。

 そうである以上、ゴッホの絵のような前衛的な作品については、絶対に評価しないのですね。

 

 しかし、だからといって、庶民が悪いわけではありません。

 いってみれば、それは「神様」が仕組んだこと。

 「神様」によって、大衆は❝ズボラ生命体❞たることを宿命づけられてしまったのだから、仕方がないんですよ。

 

 逆にいえば、大衆がズボラであることによって、世の中の変化スピードが適正に保たれているのかもしれません。

 

 もし、庶民がより敏感で、努力家で、ゴッホのような天才が発するメッセージに牽引され、素直にスピーディーに変化向上していくような存在だったなら、世の中は電光石火の速さでめまぐるしく変わっていってしまうでありましょう。 

 これでは、却って世の中がメチャクチャになってしまうおそれがあります。

 

 つまり、大衆の「ズボラ癖」が或る種の❝ストッパー❞になっているというわけですね。それはちゃんと必要なことなんです。

 

 したがって、いかに天才といえど、この❝ストッパー❞を安易に外そうとすることは、許されないでありましょう。

 もし、この❝ストッパー❞を外そうとすれば、「神様」が黙っちゃいません。

 必ず何らかのシッペ返しを天才に対して与える筈です。

 ゴッホが味わった苦しみが、まさにそれでしょう。

 

 天才といえども、庶民を牽引することも、触発することも、変化向上させることも、無理なのです。

 

 所詮、人間に人間を変えさせることなどできません。

 それができるのは、「神様」だけです。

 

  だから、もし人間が大衆、或いは他者を変えようとするなら、それは身の程知らずの不遜な振る舞い、ということになってしまいます。

 そんなことは許されません。

 

 許されるのは、相手を「ズボラ」にすることだけです。

 

 それが、人間としての掟なんですね。

 

 もっとも、これは、社会的・経済的な影響力を他者に対して及ぼす場合は、の話であります。

 

 自分一人が単独で、個人的に努力向上するぶんには一向に構いません。

 そして、男性であるなら、フェロモンをどこまでも強烈に発散して構わないのです。

 

 そこまでは「神様」も規制をかけません。

 いや、むしろ、「神様」は積極的にフェロモン値UPを奨励してくれているとすらいえましょう。

 

 つまり、「神様」は、他者を変えようとする者には規制をかけるんだけれど、自分を変化向上させようとする者に対しては規制をかけず、むしろ応援してくれるのであります。

 

 したがいましてね。もし彼が、フェロモンむんむんのイイ男に成長した場合にね。たとえ女の子にモテまくって、次から次へと抱きまくったとしても、それは社会的・経済的影響力ではなく、生物学的影響力であるから、許される、というわけなのです。

 

 つまり、彼が優秀な遺伝子を構築し、バラまき、子孫に伝える、そういう「変え方」ならOKであるということなんですね。

 そういう影響力の及ぼし方なら許されるのですよ。

 「ズボラ・ワールド」に引き摺り込まなくてもいいんです。

 

 もし、優秀な子孫が生まれてくれたなら、労せずして他者を導き、変化向上させたことになります。

 自分の血を引く我が子ではあるけれど、他者を変えたことにかわりはありません。

 

 手加減抜きで努力し、向上できるだけ向上し、しかも、そういう自分を受け入れてもらえ、評価してもらえ、さらにそのうえ性的快感まで味わえて、ハッピーになれる、そんな夢のような営為があるとすれば、それは恋愛だけかもしれません。

 

 究極のカッコ良さを果てしなく追求しても見捨てられず、逆に愛される。こんな都合のいいことも他にないでしょう。

 

 ビジネスだと、こうはいきません。

 カッコ良さを求めているうちは金儲けはできません。

 なぜなら、他者を引っ張り上げることはできず、逆に引き摺り下ろすことしか、商売の世界では許されないと考えられるからです。

 

 要するに、ゴッホみたいな天才や努力家に対し、「手加減」を強いる営み、それがビジネスである、ということなのです。

 

 果てしない変化向上欲求を無理矢理抑え込み、「手加減」しながら、社会的・経済的影響力を及ぼす営みであると、割り切らなければならないのですよ。

 

 ゴッホはその割り切りができなかった。

 「手加減」ができなかった。

 

 「手加減」をせずに、努力を強要してしまうことは、「神様」が決めた❝ズボラ勢力図❞、いわば❝ズボラ有機体❞を無理矢理変えてしまうことに相当します。

 

 努力家もいればズボラもいる。世の中にはいろんな人がいる。

 

 それが当たり前の有機体です。

 世の中のメカニズムはそうなっているのです。

 

 他人は変えられない。

 

 その一語に尽きますね。