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橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

パイオニアのほうがフォロワーよりも頭を使う

 最近の脳科学の研究によれば、単純な計算のほうが複雑な計算よりも脳を活性化させることが判明したらしいです。

 一体、なぜ?

 それはですね。

 複雑な計算というのはですね、学校で解き方を習うでしょう?

 そして、思考停止状態のまま、ただ教えられた通りに事務的・機械的に解くだけ。

 頭など使うわけがありませんよね。

 

 「なぜそういうふうに解く必要があるのか」とか、「どういう狙いがあり、そしてどういうメカニズムに沿って解いているのか」といったことについては、一切考えないし、先生だってそんなことは必ずしも知っているわけではありません。

 

 たとえば、ピタゴラスの定理にしたって、ピタゴラスの思考プロセスなんて判っていないのですね。

 ただ「そういう定理があるよ」っていうことを習うだけです。

 ピタゴラスの視点に立って概念を理解しているわけではありません。

 

 要するに、算数とか数学を習うってことは、あまりにも現実との接点を実感できないことを、ただ機械的・事務処理的にやらされているだけなんですよね。

 

 一方、単純計算というのはね。

 

 現実との接点がちゃんとあるんです。

 自分の頭の中で概念を把握できるのですね。

 

 つまり、「数」という概念を、現実の事象になぞらえるというか、照らし合わせるというか、そういうふうにリアルに実感しながら計算問題に取り組めるのであります。

 

 要は、テクニックではない、ということなんですよ。

 

 それに対し、算数とか数学というのは、解を最も効率よく導き出すためのテクニックなのであり、最終的なゴールをどこに設定しているかといえば、それは、「解を出すこと」という一点です。

 途中のプロセスなど、どうでもいいわけ。

 

 むしろ、「解を出すためだったら何でもあり」の世界、といったほうが正しいかもしれません。

 

 数学のルールの中で矛盾さえしなければ、何をどう途中でいじくっても許される。

 

 ありとあらゆるテクニックが許されてしまうのです。

 

 たとえば、或る図形上で、一定の制限(ルール)を設けたうえで、「可能なかぎり線を引きなさい」「その線は何本あるか」みたいな問題があったとしましょうか。

 そして、その制限(ルール)とは、「重複を避けねばならない」「点と点との間には必ず線を1本引かねばならない」ということだったとします。

 この場合、数式上(計算上)は、「2」で割ればいいだけです。

 「解」を出すためにはこれで充分です。

 

 しかし、「重複を避けるために2で割る」ということって、あまりにも技巧的であり、現実との接点が無さすぎやしませんか。

 あまりにも非現実的であり、実際の図形上にリアルに線を(手書きで)引いてみて考えるということからかけ離れすぎてしまっています。

 

 なんか、いかにも、塾とかで教えていそうな、「知らなきゃ損するよ」的なテクニック、というような気がするのです。

 

 「ややこしいメカニズムや途中のプロセスなんか知らなくていいからとにかくやり方だけ覚えておけ」みたいなことを塾の先生とかから教わって、ただその指示に盲目的に従って問題を解いているだけ、みたいな、そんな気がどうしてもしてしまうんですよ。

 

 当然のことながら、もしそうであるなら、頭なんか使うわけがありません。

 

 難しい計算問題を解くということは、そもそもそういう性質のものだったのですね。

 

 論理をリアルに積み重ねていきながら苦労の末に正解に辿り着く、という楽しさが、そこには無いのです。

 

 楽しめるか楽しめないかの違いは、大きいです。

 

 自分でレールを敷くのか、他人が敷いたレールの上をただ追従していくだけなのか、の大きな違いがそこにはある、ってことなんですよね。

 

 要は、パイオニアかフォロワーか、の違いってことですよ。

 

 どちらがより頭を使うでしょうか?

 答えは決まっています。

 パイオニアのほうです。

 

 単純計算というのは、「単純」という形容詞こそ付いているけれど、自分の頭で数の概念を使って、リアルに論理を積み重ねていく作業を行うので、パイオニア的な仕事をしているのと等しいことになるのですよ。

 

 だから、そっちのほうが頭をたくさん使うといえるのであります。

 

 まあ、考えてみりゃ、「単純」なカラクリですね。