読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

座頭市と量子論

 量子論*1は、観測行為をすれば物理量*2を決定できるけど観測する以前の段階では物のありようは何一つ決まっていないんだ、それについては確率でしか言い表せないんだ、としています。

 これは、非決定論の考え方です。

 人間が観測行為を通じて対象を見てはじめて位置や速さなどが判るにすぎず、見ないうちは、物体は「確率の波」となっていて何一つとして確定されていない、という扱い方をするのですね。

 アインシュタイン博士もそうだったけれど、私もどうもその考え方に納得できません。

 

 私は、決定論の立場に立ちます。

 

 人間が観測する・しないに係わらず、物のありようはもともと決まっている、と考えるのです。

 

 それこそが美しいんですよ。

 

 量子論は、私たち芸術家が愛してやまぬ自然界の美的法則性を、土足で踏みにじるような理論なので、到底、受け入れることはできません。

 

 ていうか、おかしいと思うんですよね。

 

 こう考えてみてはどうでしょうか。たとえば、一人暮らしをしている人が、アパートで就寝したとしましょう。本人は寝ちゃっているし、他には誰もいません。観測者と呼べるような存在はゼロです。

 ということは、量子論に従えば、彼は「波」であることになります。

 じゃあ、もし彼がオネショをしたらどうなるでしょうか?

 「波」がオネショなんかできるのか、という話になります。

 そのオネショも「波」なんですかね?

 位置が定まらず、雲のように分布しているのでしょうか。

 

 笑える話じゃありませんか。

 

 或いは、たとえば、座頭市が電光石火の居合斬りで敵をばった、ばったと、倒してゆくシーンを想定してみてください。

 ご存知の方も多いでしょうけれど、彼は「Blind  Swardman」なわけです。盲目の剣士ってことですね。

 だから、当然のごとく、「見ていない」のですよ。観測していない。

 ってことは、敵は「波」になっているのか。

 「波」を斬っているのか。

 斬られた敵は、座頭市に見られるまで「半死半生」なのか。

 

 座頭市と琵琶法師が対面したらどうなるのか。

 

 二人とも、「波」になっちゃうのか。

 「波」同士で干渉を起こすのか。

 山と谷がより深くなるのか。

 ますます勘が冴える反面、ますます世間から爪はじきにされ、ますます傷つくのか。

 ますます悲しみを背負って生きてゆくのか。

 

 彼らがもしも立ちションをしたくなったときは、どうするのか。

 アソコの位置が確定しないとでもいうのか。

 チ〇コの「波」、ってか。

 

 言わせんなっ!

 

 真面目に考えれば真面目に考えるほど、馬鹿らしく思えてきてしまいます。

 

 まあ、いずれ、量子論を覆す論文を私が書きましょう。

 

 ご期待あれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ミクロの世界における粒子の振る舞いについて記述する理論のことです。

*2:位置や速さなどの度合いを示す量のこと。

広告を非表示にする