橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

奇跡とバブルのパラドックス

 キリスト教世界宗教になりえたのは、ひとつには、殉教者がたくさん出たからだと思われます。

 教祖イエスをはじめ、その使途たちがことごとく殉教したことが、なんといってもいちばん大きいでしょう。

 見ている人たちは、「そんなに凄い教えなのか」と思い始め、「じゃあ、俺も」となりやすいんじゃないでしょうか。

 これがもし、イエスや弟子たちが殺されそうになったとき命乞いしたり、主張を引っ込めたりしていたなら、キリスト教はここまで発展しなかったにちがいありません。

 

 ここにパラドックスがあります。

 

 人は、理屈だけじゃ説得されないけれど、他人の熱意や気迫、厚い信仰といったものをみると、案外呆っ気なく引き込まれてしまうもんなのですね。

 嘘も方便といいます。

 聖書には、(私の偏見ですけれど)いろいろと胡散臭いことも書いてあるんだけれど、大衆を先導するためには、そうしたレトリックが必要だったからこそ、そういうふうに書かれたのでありましょう。

 

 つまり、書き手の人たちは、一流の文学者だったというわけです。

 

 レトリックの達人だったのです。

 

 だからこそ、キリスト教は世界に広まった。

 

 しかし、そこで紹介されている数々の奇跡は、聖書という書物、もっといえばフィクションの中だからこそ、起こり得るものだといってよいでしょう。

 

 現に、聖書以後の時代には、そういったことは起こっていないし、いまでも起こりません。

 病人が一瞬で治ったり、死人が生き返ったりすることは、絶対に起こりません。

 それは、いうまでもないことです。

 

 殉教も決して、貴いことではありません。

 なぜなら、人間が生きるために宗教があるのであって、宗教のために人は生きているのではないからです。

 人は生きるために米を作って食べるけれど、米を作るために生きているのではない、ということと同じです。

 

 とにかく、フィクションと非フィクションとを冷静に見分ける目を持ちたいものですね。

 

 裏切ったり、逃げたり、惚けたりした弟子たちが、キリストの死後、まるで別人のように布教活動をし、次々に殉教していったという点も、怪しいといえば怪しいです。

 「三つ児の魂、百までも」といいますよね。

 

 人は、そんなに急変したりはしないものです。

 

 これからの時代は、我々人類にとって、或る意味、厳しい局面に入っていくことになるでしょう。

 奇跡を、否定とまではいかずとも、クールな目線で見据えることから始めないと、いろいろと苦労させられる羽目にならないとも限りません。

 

 近道は、無いのですから。

 

 甘い幻想を植え付ければ、状況は「バブル」になります。でも、バブル的なレトリックを用いないと、人々を先導できないこともまた、確かです。

 

 そこに、パラドックスがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

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