橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

「腐ったミカン」の論理

 「困ったこと」とは、自然界の有機的構造を崩すようなことをしたため、それに伴って発生した弊害のことです。

 別の側面からみると、こうもいえます。

 

 「自分」は相対的な存在にすぎないのに絶対的であると思い込み、その間違った思い込みとしての絶対性を貫こうとしたために発生した害悪である。

 

 と、こういうふうに、定義づけることもできます。

 いずれも、表現が違うだけで、言っている中身は同じことです。

 そうであるならば、有機的構造を崩すようなことをしたり、或いは自分の絶対性を貫こうとしたりしなければ、「困ったこと」は一切起こらない、ということになります。

 

 誠実に生きている限り、自分にとって「困ったこと」というのは縁のない世界なのです。

 

 ちょっとやそっとのことで有機的構造は崩れたりしないから、安心して暮らしていればよいのですね。

 一見、「困ったこと」のようにも思える出来事があっても、それは「困ったこと」の仮面を被っているだけで、本当は「困ったこと」なんかじゃないのですね。

 つまり、有機的構造が崩れるような事態ではないのだから、余裕をもって、ありのままの真実を受け入れ、許容し、認容してしまえばいいのです。

 

 よほどの非常事態じゃない限り、有機的構造は崩れません。

 しかしながら、不思議なもので、自分自身を絶対的なものと勘違いしてその絶対性を貫こうとすると(エゴイズム)、有機的構造はすぐにピンチになってしまいます。

 その具体的表れとしての害悪が、悩みや苦しみなのです。

 

 だから、大事なことは、やはり「有機的構造徹底尊重姿勢」なのであります。

 

 それはすなわち、広い心、豊かな心を持つ、ということです(他尊心)。

 

 一方、自尊心とは、有機的構造を維持するための一つのテクニックにすぎません。

 だから、それを絶対視し、エゴイスティックな振る舞いをしてしまえば、大自然は有機的構造を守ろうとするため、個体消去の作用が自動的に働きます。

 その具体的表れが、病気とか悩みとか苦しみ、というわけです。

 

 しかしながら、自らの自尊心を全否定してしまうと、やはり大自然は有機的構造を守らねばならず、「大は小を兼ねる」的な原理で、全体の統率上、やむをえず、個体を切り捨てようとするのです。

 その表れがやはり、苦しみや悩みや病気、となっているのです。

 

 まあ、要するに判りやすくいうと、「腐ったミカン」の論理とまったく同じということですね。

 

 段ボール箱いっぱいにミカンが入っていて、その中に1個腐ったものがあるという場合、それをそのまま放置すると、他のミカンや、ひいてはミカン箱全体の秩序に悪影響が及んでしまいます。

 それゆえ、全体の秩序を守るために、その腐ったミカンは捨て去らねばなりません。

 これが個体消去の作用と同じというわけですね。

 

 有機的構造を崩そうとする不遜な人間も、大自然が仕組んだ自衛策によって、個体消去の方向へと導かれていってしまうのです。本人の望む・望まないに関わりなくね。

 

 したがって、やはり、ミカン箱の中から1個たりとも腐ったミカンを出現させない「有機的構造徹底尊重姿勢」をもち続けることこそが、大事なのであります。

 

 つまり、広い心、豊かな心を持つのがのぞましい、ということなのです。

 

 そして、そういう心は、他者の存在、行動、考え方、過ちなどを受け入れ、許容し、認めてしまうという余裕の心なのです。

 

 広い心、豊かな心を持っているだけでいいのです。

 

 だって、「困ったこと」は起こらないのですから。

 

 

 

 

 

 

 

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