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橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

社会における「アクセル役」と「ブレーキ役」

 「老い」とは何か?「老人」とは何か?

 そして、「老害」とは?

 それらの存在意義は、一体、どこにあるのか?

 

 そうした問いに答えるのは、簡単なことではないでしょう。

 人によっていろいろな意見があるでしょうし、もしかしたら、その問い自体が、フォーカスを当てずらい性質のものなのかもしれません。

 

 ただ、ひとついえるのは、「ブレーキ」としての存在意義はある、ということです。

 

 世の中・人類社会においては、2種類の構成要素が必要なのであって、1つが、「アクセル役」で、もう1つが、「ブレーキ役」です。

 

 老人の役割は、後者としての機能を果たす点にあるのではないでしょうか。 

 

 もちろん、それは専ら、もしもそこに積極的な意味を見出すとしたら、の話ですし、老人全員がそうだといいたいわけではありません。

 でも、もし仮に、「アクセル役」としての老人、という観点に立ってしまうと、(大変失礼な言い方で申し訳ありませんが)どこをどう探しても矛盾点しか出てこない、という結論にならざるを得ません。

 なぜなら、新しいものは何も生まれてこない、と考えられるからです。

 

 神様は、一体なぜ、高齢化社会を作り出したのか、なぜ、現役というか第一線を退いたかたたちを長々と、それも大勢、お生かしなさるのか、そのメリットはどういった点にあるのか・・・・・・そんなような疑問がふと頭をよぎったとき、パッ、と思い浮かぶのが、「ブレーキ役」という概念なのです。

 

 そうした切り口から考えれば、むしろ彼ら・彼女らの積極的な意味での存在意義がみえてきます。

 

 車だって、アクセルとブレーキの両方が必要でしょう。

 アクセルだけでもダメだし、ブレーキだけでもダメ。両方が揃ってはじめて、車というものは運転が可能になります。

 どちらも、車の機能を果たすうえで掛け替えのない、大切なパーツなのです。

 

 どっちも大事なんです。

 

 それと同様に、社会の構成員についても、「アクセル役」(若者もしくは現役世代)と「ブレーキ役」(老人もしくはリタイヤ世代)の両方が、掛け替えのない、大切な構成要素である、というビジョンが大事になってくるのですね。

 

 人類にとって究極の目標は、「共存共栄」です。

 

 若者も老人も、男も女も、みんながハッピーに暮らせる社会を築き上げることこそが、これからもさらに、追求されてしかるべきだと思われます。

 

 ただ、そうはいっても、いまの少子高齢化社会ってのは、(重ね重ね失礼な言い方で申し訳ありませんが)「ブレーキ」だらけだから困るんですよ。

 

 「ブレーキ」というものは、ちょっとお世話になるだけで足りると思われます。

 

 「スピード」が出過ぎたときだけ、一時的に関わり合いを持てれば充分なんですね。

 

 そうしたバランス感覚って、これからは一層、大事になってくるような気がします。

 

 社会において主役を張れるのは、あくまでも「アクセル」のほうなんですよ。

 「ブレーキ」は脇に控えていてしかるべきなのです。

 

 もし、脇役が主役を押しのけ、白昼堂々、娑婆を闊歩しているようなことが常態化するなら、いよいよ、ヤバい状況になっていくんじゃないでしょうか。

 

 主役と脇役のバランシングを誤ると、社会は衰退もしくは滅亡へ向かいます。

 

 まあ、逆にいえば、課題はそこだけなんですけれどね。

 そこさえクリアできれば、この社会はまた発展してゆけるでありましょう。

 

 じゃあ、一体、どのようなアプローチから、そういった社会本来の、理想的なバランス状態を実現していけばよいのでしょうか?

 

 先ほども申し上げたように、もしも、「ブレーキ役としての老人」という視点が抜け落ちたまま政策を進めてしまうなら、大変なことになってしまいます。それはおもに、次の2点に集約しうるでしょう。

 

 ➀ 定年退職者の積極的再活用

 ➁ 少子高齢化に伴う労働力不足を補うための移民の受け入れ 

 

 この2つですね。

 ➀については、さっき主役と脇役の議論のところでお話しした通りなので、説明は割愛します。

 問題は、➁のほうです。

 これについては、よく、有識者オピニオンリーダーといった方々が積極論を主張なさっておられますよね。

 

 でも、移民を受け入れる前と受け入れた後の、社会的パワーというか、国力の総量は、あまり変わらないような気がします。

 

 それはなぜか?

 やはり、「ブレーキ」という視点が抜け落ちたまま、ただ労働力だけ補っても効果が無い、と予想しうるからです。

 考えてみてください。日本は、4人に1人は高齢者であるという、超高齢化社会なのです。

 言い方は悪いですけれど、「ブレーキだらけの国」なのです。

 そこに、外国人労働者たちをたくさん招き入れても、日本の老人たちが根こそぎパワーを吸い取っちゃうと思われるのです。

 だから、あまり労働力UPには繋がらないことが予想されます。

 

 外国人労働者たちは、疲労困憊して、母国へ逃げ帰るのがオチなのではないでしょうか。

 いや、むしろ、移民受け入れを決めてしまえば、海外から老人たちが殺到してきて、日本人、外国人、入り乱れての、老人たちの❝ブレーキかけまくり競争❞、❝エネルギー吸い取り合戦❞みたいな状況にすら、なってしまいかねません。

 

 そうなったら、もう、❝日本滅亡カウントダウン❞の始まりである、っていっても過言ではないと思います。

 

 繰り返しますけれど、人類の究極の目標は、「共存共栄」です。

 

 老人も若者も、日本人も外国人も、男も女も、みんなが幸せに生きられる落とし所をいかに見つけるか、ということを、私たちは真剣に考えるべき時期に差し掛かってきています。

 

 もうそろそろ、逃げられなくなりつつあるのですよ、そうした課題と真正面から向き合う、ということにね。

 

 きれいごとばかり並べ立てていても、問題は解決しません。

 本質論として、「老人」とは何か?、「老害」とは何か?、といったことを見つめ直す必要があると思います。

 

 ジェンダー論について触れた過去記事でも述べましたけれど、男女の性差は社会が生み出したものなのか否か、という議論がありました。

 ただ、それ以上に、高齢化社会というものは、まさに現代社会が生み出した「社会的産物」であると思います。

 自然発生的にそうなったのではなく、人為的な、過剰なテコ入れの結果、出来上がったものであるような気がします。

 なぜそういえるのかといいますとね。

 本来、人間は、手付かずの、ありのままの生存競争に晒されれば、必ず、強い者が生き残り、弱い者は滅びるようになっています。

 

 サバンナにおける動物たちの世界もそうですよね。

 まさに弱肉強食そのもの。

 これは自然界の掟でもあるのですね。

 

 要するに、放っておけば、弱者は生き残れずに消えてゆくから、高齢化社会になどなるわけがないのですよ。

 

 それがごく当たり前の帰結なのであって、きわめて自然な成り行きであると思われます。

 ところが、現代社会が必要以上にケアしてあげたため、本来弱者である筈の高齢者が、たくさん生き残ることができたのです。

 手厚い保護を受けていられれたがゆえに、スーパー長寿を実現しえたわけです。

 

 でも、それは、本来的な、自然界の弱肉強食・優勝劣敗の掟に反している、といわざるを得ません。

 もちろん、長生きすることは素晴らしいことです。

 ただ、それが本人の自助努力に拠るものであるべきなのであって、国や社会や若者たちから依存的にエネルギーを取ってくるようなことがあってはいけません。

 

 それでは、初めのうちはいいかもしれないけれど、やがて共倒れになってしまうからです。

 国が滅んでしまっては、高齢者たちだって生きてはゆけません。

 

 しつこいようですけれど、人類の究極の目標は、「共存共栄」です。

 共倒れは避けねばなりません。

 

 でも、いまのこの民主主義下での社会システムに任せっきりでいるだけであるなら、それを防げないでありましょう。

 多数決が物をいう高度文明社会においては、高齢者の権限が肥大化してしまっているため、民主的方法で従来のシステムを変えていくのは困難です。

 

 政治的アプローチが通用しない、ということです。

 

 やはり、本来の、自然のままのルールをみんなが学び、それを応用して幸せを実現できるようになるためには、科学的アプローチが最も有効であると思われます。

 

 正しい科学的知識があれば、世の中は少しずつ、動いてゆくでありましょう。