橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

「一神教」と「一元論」は別物である

 この世に無駄なものなど何一つありません。

 

 なぜなら、この世というものは、理論上、「常に変動する時計仕掛けの有機体」であると見做せるからです。

 すなわち、万物・万人というのは、この一つの「時計」を形成する「部品」であるのであって、何一つとして欠けてはならないものなんですね。

 

 だから、無駄なものなんて何も無いのです。

 

 このことは二元論では説明できません。

 

 どうしても二元論に拘るならば、「この世は無駄なものと無駄じゃないもの(つまり必要なものとそうでないもの)とがある」という結論を採らざるをなくなってしまいます。

 たとえば、この世に「生」は必要だけれど「死」は不要のもの(無駄なもの)である、的な見解を主張することになってしまうのです。

 しかし、「死」を無駄なものと捉えると、おかしな結論になります。

 一例を挙げるなら、アポトーシス*1の存在意義が説明できなくなってしまうことが、そうでしょう。

 人間の体を構成するたくさんの細胞の大部分が癌細胞にならずに済んでいるのは、じつはアポトーシスのシステムがあるお蔭なのです。

 癌細胞は、「無限増殖能」というものを持っています。したがって、もしも自死のシステムであるアポトーシスが無駄なものであると考えると、人間やその他の多細胞生物はただの癌細胞の塊になってしまうでありましょう。

 生き物の体には、そうならないようにするために、アポトーシスの機構がすべての細胞に備わっているんですね、少なくとも分裂細胞*2についてはね。

 

 また、別の例でいうなら、宗教対立がそうでしょう。

 キリスト教は正しいけれどイスラム教は間違っているとか、或いはその逆であるといったような、極端な話になってしまいがちなんですよね、二元論に立つとね。

 イデオロギー対立にしても同様です。

 

 いずれにせよ、「この世に無駄なものなど何一つ無い」という一元論に立たないと、争いというものはなくならないんじゃないでしょうか。

 

 勘違いしてしまいがちなのだけれど、「一神教」と「一元論」は同じではないんですよね。

 まったくの別物なのです。

 

 「一神教」ってのは、じつは「二元論」に立っているんですよ。

 唯一絶対の神がいる一方で、そうじゃない邪神・悪魔がいる、って考えるわけですから、じつはそれって「二元論」なんですよね。

 

 たとえば、キリスト教では、イエス・キリストこそ唯一絶対の神であると捉え、それ以外の神性は否定しているわけでしょう。

 つまり、それって、「キリスト」と「それ以外の邪神・邪教」とに二分して考えているわけです。

 ということは、キリスト教は「一神教」ではあるけれども「二元論」に立っている、といえることになるんですよね。

 

 これはイスラム教でもユダヤ教でも、その他の宗教でも、事情は大体同じだといえましょう。

 

 ただ、仏教は別ですけどね。

 真理の教化方法は何でもいいんだ、としていますからね(少なくとも原始仏教ではね)。

 

 

 でも、仏教も、キリスト教も、イスラム教も、その他の宗教も、全部必要である、とするのが、私の考え方です。

 なぜなら、無駄なものなど何一つ無いわけですから。

 

 

 各自が好きな宗教や思想を信じ、争うことなく共存共栄していけばいい、ってだけの話。

 

 それ以上考えることは何もありません。

 

 

 これこそが、一元論なのであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:細胞に予め備わっている自死のプログラムを、そう呼びます。

*2:分裂して増殖するタイプの細胞のことです。一方、心筋細胞や脳神経細胞(ニューロン)、卵細胞などの非分裂細胞は、分裂をしないので、絶対に癌化しません。