橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

主観相対論

 カメラの原理も人間の視覚の原理も、基本的には同じものです。

 すなわち、どちらも、いろいろな波長の光をセンサーたるレンズなり網膜なりでキャッチし、映像として映し撮る、という仕組みです。

 

 この点、人間の認識というのはあやふやで、本当の真実を正確には捉えきれていない、まやかしの世界を認識しているにすぎない、といった見解を主張する人は、けっこう多いように思われます。

 

 しかし、次のようなことがいえるでしょう。

 私は職業柄、写実的なデッサン力には自信を持っています。そして、たとえば人物の似顔絵についても、まるで写真のようにリアルな画像を作成することができます。

 そうすると、誰が見ても「その人」であると認識できるのです。

 たとえば、「Aさん」という有名人の似顔絵を私が描いたとすると、誰が見ても「Aさん」にみえるものなのですね。

 人によって「Bさん」にみえたり「Cさん」にみえたりするようなことはありません。

 それはなぜかといったら、画家としての私の認識力・観察力が、まるでカメラのレンズのように素直で正確だからではないか・・・と、そんなふうに考えられるわけです。

 

 もし私の認識力が歪んでいるなら、「Aさん」そっくりの似顔絵など描けない筈です。

 また、それを鑑賞する側の人にも正確な認識力・観察力がなかったら、誰の似顔絵なのか識別することなどできないでしょう。

 

 したがって、人間の認識力というものは決して侮れず、軽視すべきではない、といえることになりましょう。

 

 また、その一方で、感覚遮断実験のデータもあります。

 これは、カナダの大学で行われた、被験者を何の刺激も無い部屋に閉じ込める、という実験なんだけれど、ほぼ全員が3日ともたずに発狂状態で逃げ出した、というデータが残っています。

 このことは、人間の主観・認識がいかに無力であるか、周辺環境の刺激の恩恵にあずかることが人間にとっていかに大切であるか、ということを示唆しています。

 

 これらの事実を綜合すると、「自分の主観・認識というものは、絶対視も軽視もどちらもしてはならない、つまり相対視すべきものである」との原則論が導かれて参ります。

 

 

 「自分」とは、他者との関係性においてのみ、「自分」であることが許されるような、そんな「相対的な存在」にほかならないのであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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