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橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

純原理的なもの

 純理論的・純原理的なものには、美しさがあります。

 数学のような清潔感があります。

 

 たとえば、小乗仏教がそれの一例です。

 それは、純原理的に、宇宙・自然の仕組みを解き明かすために研究された学問なのですね。

 

 或る意味、科学の基礎研究とか、或いは哲学とも共通するものがあります。

 

 一方、それに対して、大乗仏教というのは、実際に解明した原理を一段階飛躍させたものを「仏の教え」であるとして、世の中の不安やら悩みやら苦しみを持つ人々を救済するためのテクニックとして編み出された方法論です。

 

 だから、場合によっては胡散臭い部分が出てきてしまうこともあります。

 なぜなら、純原理的な範囲をどうしても逸脱しがちになるからです。

 

 純原理的なものは、自分の心の中で築き上げるものなのであって、団体や組織を作って広めていくものでもなければ、ビジネスに繋げていくようなものでもありません。

 

 もしそれを強行するなら、それはどうしても胡散臭いものとなってしまうでしょう。

 

 「嘘も方便」というように、どうしてもテクニックの部分を重視せざるを得ないからです。

 

 お釈迦様だって、当時の、読み書きもできないような民衆に対して、純原理的な真理の世界を教えようとしたものの、ちょっと無理がありました。

 

 そこで、方便として、必ず一緒じゃないと宿泊しない姉妹とか、死者を一人も出さない家の芥子の実といった概念を用いて、判りやすく説明したのです*1

 そうしない限り、伝えることは不可能だったからです。

 

 しかし、現代では、そうした「テクニックの部分」ばかりが肥大化してしまい、さらに、胡散臭い新興の宗教のようなものが次々と出現してきてしまったのでした。

 

 ところが、現代の教育水準の高い教育を受けた一般市民は、自分自身の努力次第で、純原理的なものを理解するに至る素養は十分にあると考えられます。

 

 そういう意味で、現代人は幸せなのであり、素直になりさえすれば、健康で幸せで思い通りの人生を全うできる筈です。

 

 にもかかわらず、エゴイズムで心を曇らせてしまい、そのことに気付こうとしない人のなんと多いことでありましょうか。

 

 

 心は、磨き続ける必要があるのですよ、生きている限りね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:「待機説法」といいます。

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