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橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

ひかり

 熊本の地震では、まだまだ要警戒の日々が続いており、現地の皆様におかれましては、こころ穏やかならぬ状況に対して、なにかと胸を痛めておられることでしょう。

 

 一刻も早く余震が治まり、通常通りの、安心できる暮らしが戻ることを、切に、願ってやみません。

 

 

 

 

  

 一元論二元論の対立があります。

 それは、肉体と魂を分けて考えるべきか否か、についての争いです。

 

 この点、二元論的な立場に立ってしまうと、多くの人は「運命」よりも「運」の発想へと傾いていきがちとなります。

 なぜなら、たとえば、Aさんの肉体とAさんの精神を分けて考えてしまうため、仮に肉体が滅んだとしても魂はその影響を受けず、永遠に存続するんだ、というような思考に陥ってしまいがちになるからです。

 これだと、あまり運命のシナリオというものを意識する必要がなくなります。

 

 そして、「なぜ自分は自分なのであって他人ではないのか」といった疑問に憑りつかれてしまう場合も出てきます。

 

 しかし、この世はいわば「時計仕掛けの有機体」であり、そこに暮らす各構成員は、それぞれ独自の「使命」と「氏名」を与えられ、それに則って役割を果たすことで、幸せに生きていけるような、有機体論的・一元論的な仕組みになっているのです。

 

 人は、与えられた「ミッション」を放棄したり、他者に転嫁したり、そこから逃げだしたりすることは、許されません。

 

 それゆえ、肉体と魂は一体のものであり、切り離して考えることはできないのです。

 なぜなら、自由自在に切り離せるとしたら、「ミッション」から逃げたい放題逃げてしまえるからです。

 しかし、それでは、せっかくオリジナルの存在として固有の名前、顔、性格、能力を与えられてこの世に生み出されてきた意義が失われてしまうことになります。

 だからこそ、肉体と精神はセットで扱われるべきものなのです。

 

 そう考えるのが、一元論の立場なのです。

 

 この考え方を徹底していくと、やがて運命論へと行き着くことに(論理的には)なります。

 

 そうであるなら、人の「運命」は、寿命も含めて、すべてが予め決定されている、との考え方に帰着していくことになりましょう。

 

 一元論的運命論に立って眺めてみれば、この世は「時計仕掛けの有機体」です。

 時計内部には様々な、掛け替えのない「部品」が内包されており、それらが共存共栄することで、美しく、豊かな調和が実現されています。

 そこには長い針もあれば短い針もあるし、大きいネジもあれば小さいネジもあるし、電源もあれば発振機構もある、というように、様々な個性が幸せに同居しているのです。

 

 それゆえ、「なぜ長い針は長い針なのであって短い針ではないのか」と問うたところで、無意味であることになりましょう。

 

 なぜなら、長い針には「いま何ぷんであるか」を示すという独自の役割があるし、短い針には「いま何時であるか」を示すという独自の仕事があるからです。

 

 そうであるなら、同様に、「なぜ自分は自分なのであって他人ではないのか」という二元論的な疑問をぶつけてみたところで、それは無意味であることになりましょう。

 

 

 

 人にはそれぞれ、「運命」というものがあるのです。

 

 

 

 しかし、それを人間が語ることは果たして許されることなのでしょうか?

 

 そこに踏み込んだら、その先はもう「神の領域」で、人間にとってアンタッチャブルな世界であるような気もします。

 

 突然の悲しい自然災害が起きるたびに、いつも、「慎まねばならない、慎まねばならない」との考えが頭をよぎり、私は胸が苦しくなるのです。

 

 同一の災害に遭ったという条件は同じなのに、或る人と、別の或る人とで、「生」と「死」というふうに結末が分かれるのは、一体なぜなのか。

 

 

 私には弟がいたのだけれど、彼は若くして(病気のため)この世を去りました。

 一方、私はというと、いままで幾度となく命の危機に晒されることもあったのに(大病を患ったり大けがを負ったりしたのに)、悪運が強いのかどうかは知りませんけれど、なぜか生き延びてこれたのです。

 

 同じ家で暮らし、同じようなものを食べ、同じように寝起きしているなかで、なぜ、私と彼とでは、「生」と「死」というように結果が分かれたのか。

 

 

 考えれば考えるほど、こういうテーマについては、人間にとって大きな制約が付いて回るような気がします。

 

 

 

 そのたびに思うのです。沈黙すべきである、と。

 

 

 

 

 ただひたむきに、未来が明るいものであることを信じて、前向きに生きていけるなら、それでもう、(何が起ころうと)人は幸せになれるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 そうした姿勢の中からこそ、「ひかり」が見出されていくような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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