橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

「愛の世界」、「才能の世界」

 「愛」と「才能」は、神様から個人に与えられる恵みとして考えるなら、価値的に同じものです。


 世の中には、「愛」に恵まれた人もいればそうでない人もいるし、「才能」に恵まれた人もいればそうでない人もいるのだけれど、そうした恵みに優劣はなく、両者は等価関係に立つ、ということです。


 「愛」と「才能」は同じものなのですね、哲学的に突き詰めて考えるならね。


 そうであるなら、「愛の世界」に対応するフィールドが「才能の世界」であることになります。


 それらは、裏腹の関係に立っています。
 すなわち、「愛」に恵まれて育った人はそのぶん「才能」に恵まれないし、「才能」に恵まれた人はそのぶん「愛」に恵まれずに育ってきた、という可能性があるのです。


 この点、「愛の世界」の住人になることを目指しながら、ついに生涯そちらへ移ることができなかった人物の一例を挙げるなら、カサノバ(イタリアの伝記作家)がそうでしょう。

 彼は、母親からの「愛」を望みながらも、それの叶わない少年時代を過ごしました。そのことが、彼の心を空虚にしました。

 彼は心にぽっかりと空いた空白部分を埋めるための代償行為として、女漁りに走ったのでした。

 「愛の世界」を求めたというわけです。

 ところが、彼はもともと、そちらの世界の人間ではなかった。
 作家としての「才能」はあったかもしれないけれど、母親から愛された経験が欠落していた。

 「愛」の欠落は既に「才能」によって補填されてしまっていたため、それ以上「愛」を取り込むスペースは彼の中には無かった。

 だから、カサノバは、一生、それの欠損に悩み続けた。


 彼は終生、「愛の世界」の住人にはなれなかったのです。


 カサノバが求めるべきターゲットは、そっちではありませんでした。

 「才能の世界」の住人として輝くことこそ、彼の真の目指すべき方向性だったんじゃないでしょうか。


 このように、「才能の世界」の住人は、「才能」を磨くことに人生の時間を投入するのが望ましいのです。


 人にはそれぞれ、いろいろな境遇というものがあります。

 もともと親からたっぷりと「愛」を注がれて育った者もいれば、そうでない者もいる。
 豊かな「才能」を与えられて生まれてきた者もいれば、そうでない者もいる。


 だから、「愛」と「才能」は、しっかりと対応しているのです。


 「愛」の欠落を「愛」で補おうとしても無理だし、「才能」の欠落を「才能」で補うことも無理なのです。


 「愛」の欠落は「才能」で補われるべきものであるし、「才能」の欠落は「愛」で補われるべきものなのです。


 そのうえで、成長した自分に見合った豊かなものを引き寄せればいいのではないでしょうか。