橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

「平凡な人」と「非凡な人」

 「平凡な人」と「非凡な人」とでは、生き方が違います。

 そればかりか、両者はそもそも、“別の生き物”であるとすらいえるのではないでしょうか。

 ゆえに、仕事のパートナーから友人から、何から何まで、対象となるものの“毛並み”が違ってくるのだと思います。


 両者はまったく生き方が異なるのですね。


 したがいましてね。一方が他方の真似をしたり、参考にしたりしても、無意味である、ということになりましょう。うまくいかないようになっているのです。


 ちなみに、私は、かなりの変人ですね。
 変態じゃあないですよ。変人ね。
 変人と変態は、似て非なるものです。
 変態って、まあ、彼らだって一生懸命生きているわけだから、こんなことを言っちゃうと可哀想かもしれないけれど、非建設的なんですよね。何も生み出さない。残念ながらね。
 一方、変人ってのは、生産的なんですよ。
 けっこう、いい仕事をしたりするんですよ。

 そういう観点では、私は自他共に認める変人だし、私のような変人は、世界じゅうどこを探しても他にいないでしょう。


 いてたまるか(笑)。 


 そんなわけで、普通の人の生き方を採り入れても、私には合いません。根本的にね。

 その「合わない」度合いがどのレベルのものであるかが、お恥ずかしながら、いままでの私はいまひとつ理解できていませんでした。

 実際は、想像を絶するほど、「合わない」んだと思います。なぜなら、両者は、まったく別の生き物、まったく別の世界の住人同士だからです。

 これは余談なんですけれど、とある実業家の方が、著書か何かのなかで、じつに印象的なことをおっしゃっていました。


 「私は嫌いな人がいない。ただ、合わないだけだ。」と。


 めっちゃクール(笑)。


 なんか、共感できちゃいます。


 さて、話を元に戻しますとね。平凡な人と非凡な人とでは、お互いに噛み合わないという現象が起きてきます。なぜなら、両者は生き方がまったく違うからです。でも、これは、どちらが良くてどちらが悪い、という話ではありません。これは、「向き・不向き」の話なのです。「優劣」の問題ではないのですね。

 平凡な人に出来ることは非凡な人にはできないし、非凡な人に出来ることは平凡な人には出来ないのです。
 それはまるで、植物が二酸化炭素を吸って酸素を吐けるけれど、二酸化炭素を吐いて酸素を吸うことが出来ないことと似ています。或いは、動物が酸素を吸って二酸化炭素を吐けるけれど、酸素を吐いて二酸化炭素を吸えないことと同じです。


 相手に出来ることが自分に出来なくても、また、自分に出来ることが相手に出来なくても、それはきわめて自然なことなのであります。


 もちろん、ある程度の歩み寄りは出来るでしょうけれど、私が普通ではない世界でしか生きられないのは、そうした理由に基づいているのです。


 私は、そっち一筋で頑張れば、すべてうまくいくだろうし、それはとても幸せなことなのであります。