橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

「信じる」ということ

 「信じる」ということは一体、どういうことなのでしょうか?

 

 それは、「本質を見抜く」ということだと思います。

 

 一見複雑であるかのようにも見える物事の、本質部分を見極めて、その周辺にある些細な部分に捕らわれ過ぎない、惑わされない、ということなのですね。

 人の気持ちを例に取ると、相手の心というのは、それ自体が「本音」だと見做しうるのだけれど、言葉や態度、行動などに、それがすべて表わされているかといえば、必ずしもそういうわけではなく、「建前」の部分、ポーズの部分として外に出てきている場合もある、ということです。

 ヘタすりゃ嘘をついている可能性だってあります。

 そこまでいかなくても、ハッタリだったり、見栄だったり、駆け引きだったりすることもあります。

 それでですね、こちら側としては、そうした「建前」の部分に惑わされるべきではないのですよ。

 

 大事なことは、相手の「本音」(本当に望んでいること)を見抜く、ってことなのであります。

 

 

 それが、「信じる」ということです。

 

 フォーカスをどっちに当てるか、の問題なんですよね、ここでのテーマってのはね。

 

 「信じる・信じない」の違いは、本音と建前のどっちの部分にフォーカスするか、ということなのであります。

 「本音」にフォーカスを当てれば、それは「信じる」ということであるし、「建前」にフォーカスするなら、それは「疑う」ということになるのですね。

 

 物事は、その本質部分を見極めて、それに即した行動を起こすことで、すべてうまくいくようになっているのですね。

 

 それができれば失敗のしようがありません。

 

 その先に待っているのは、成功のみ、なのであります。

 

 木でいうなら、「幹」の部分に着目し、「枝葉」の部分についてはスルーして構わない、ってことになるのですね。

 

 

 

 まあ、それが、「信じる」ことの“本質”でしょうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 とりあえず、後で、また記事を投稿します。

 

 

 書きたくて、かつ、未整理の問題が、まだまだ私の中にたくさん残っていますのでね。

 

 

 

 

  ホント、以前と比べて、気軽に文章を書けなくなったんですよ。

 

 なんか、書くことと書かないこと、もしくは公開することと公開しないことが、(情報量としてみるなら)同じになるような気がしてきたんですね。

 

 

  公私の区別が薄れてきたというか••••••。

 

 

 まあ、それでも、そして、たとえ環境ややり方を変えてでも、書こうという気持ちはありますけれど。

 

 かつて山奥の温泉旅館に2ヶ月間閉じ込もって小説を書いたときのようにね。

 

 

 だって、書きたくないとか、書くネタがないというわけじゃありませんから。