橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

思想・良心の自由と表現の自由

 憲法上、私たちには各種の自由が与えられています。

 その中でいちばん制約のレベルが少ない、というか無制限のものがあります。それは、思想・良心の自由(19条)です。個人が、頭の中で何を考えようと、OKなのですね。どんなヘンなことやヤバいことだったとしても、すべて許されます。

 ところが、それが頭の外に出てくると、それは「表現」という扱いになります。その人は、頭の中の考えを外部へ表明した、すなわち「表現」した、ということになるのです。「表現の自由」は憲法21条で保障されているのだけれど、絶対無制限というわけではなく、法(もしくは公権力)からの縛りを受けます。完全な自由というわけではないんですね。つまり、合理的な理由があるなら、規制を受けることになるのです。

 昔、小泉純一郎元総理が、終戦記念日靖国神社を参拝して批判されたことがありましたけど、その時彼は、「私の思想・良心の自由に対してとやかく言うな!」と弁明していたのだけれど、それ、じつは「表現」していることになるんですよね。頭の中にだけとどめておいているなら「思想・良心」なんだけど、外部へ出しちゃってますからね。参拝というかたちでね。それは、彼の望みとは裏腹に、制約を受けうるのですね。

 

 さて、このように、自由というのは(原則として)制限を受けるものなのです。

 思想・良心の自由を除くあらゆる自由が、その対象になります。

 プライバシーの自由とかも、そうです。或る程度有名になると、公人としての立場から、一般人とは異なるレベルの規制を受けることもあるのです。もっとも、私のよく知っている人の中には、まったく無名の一般人であるにもかかわらず、制限だらけ、みたいな人もいますけどね。

 

 表現の自由も、合理的な理由に基づいて、制限されることがあります。

 

 完全な自由というわけではないんです。残念ながらね。

 

 芸術・芸能の世界でも、それは当てはまります。

 なんでもかんでも表現すればいいというわけでもないんですね。

 

 だから、私の愛する美的モデル、美の描き方も、必ずしも人々に好意的に受け入れられるとは限らないのですね。

 

 たとえば、物語の中で美少女を描くという場合に、私特有の、耽美主義とかロマンチシズム、或るいは生物学的な「ご褒美理論」に合致するような表現が、好まれる場合はいいのだけれど、そうでない場合もある、ということです。

 つまり、制約を受けているのですね。

 一方で、いわゆる“女優魂”といったものも、映像の世界では重んじられることがあります。あたかも芸能生命を懸けるかのごとき、女を捨てたかのような、体当たりの演技をしてみせ、観客や視聴者から喝采を浴びる役者さんもいらっしゃいますよね。

 記憶に新しいところでは、映画『銀魂』で神楽役を演じた橋本環奈さんの事例があります。彼女が、白目を剥きながら鼻をほじる場面は、話題になりましたよね。それに対しては、高く評価する声が多かったように思います。“女優魂”だ、と。

 また夏に『銀魂2』が公開されるらしいですけれど、さらにパワーアップしたパフォーマンスが作中で繰り広げられるのではないかと、多方面から期待されているようですね。再び彼女の“女優魂”を見れるのでは、とね。

 役者さんたちの熱演によって素晴らしい作品が出来上がるのは喜ばしいことだと思います。

 ただ、“女優魂”という言い回しはとても便利な言葉であって、何か極端な表現や演技をした場合の、受け入れられるためのエクスキューズになり得るものであるような気も、一方でしてしまうんですよね。

 たしかに、女優さん一人ひとりの心の中にある表現への飽くなき向上心、探究心は、絶対的なものであり、不可侵のものです。或るいは、監督さんをはじめとした製作陣の頭の中にある理想の表現、表現欲求といったものについても、それは絶対的な保護の対象となります。なぜなら、それは思想・良心の自由だからです。

 しかし、それを外部へと表わしたならば、今度はそれは「表現」という扱いになるのであって、完全無制約というわけにはいきません。

 

 “女優魂”も、絶対無制約というわけではありません。 

 

 「表現」であるからには、より良いものへと磨きあげるためにも、修正のための各種の制約がかけられることが必要な場合もあるのですね(もちろん、不当な、厳しすぎる制限は許されませんけど)。

 

 “女優魂”は、合理性ある制限ならば、それを受け入れることで、最大限の魅力に繋がります。私は、そう思うのです。詳しくは、過去記事(『ギャップ』『浮気、いやらしさ、愛』)をご参照いただければ幸いです。

 

 表現者も、一人の人間です。

 

 俳優・女優という以前に、一人の人間なわけです。

 

 そうであるなら、生物学的なミッションの面から、縛りを受ける運命にあるのではないでしょうか。

 女優さんも一人の女性である以上、どうしても、そのミッションたる「子孫の繁栄」および、そこから派生してくる「ご褒美性」といった概念を疎かにはできないような気が、私にはしてしまうのですね。

 

 要するに何が言いたいかっていうと、たとえ仕事であれ、“女優魂”の発露であれ、その人の「ご褒美性」を低下させてしまうような演技・表現は、一人の女性としてみた場合、必ずしも望ましいものではない、ということです。

 

 また話を橋本環奈さんのケースに戻しますけれど、彼女は、世界最高峰の美形といえる器であり、いずれ国外へと飛び出して、ワールドワイドに活躍するようになるでしょう。彼女はそれほどまでの逸材だと思います。

 映画の製作陣の方々、並びに橋本環奈さんの所属事務所の方々にとっては、私の申し上げることは、今さら“釈迦に説法”だとは思いますけれど、彼女の社会的役割を考えるなら、やはり広い世界へと羽ばたいていくような方向性でもってマネジメントしていくべきなのではないでしょうか。

 それだけに、『銀魂』での例のシーンは、残念に思えてきてしまうのです。

 日本随一の美少女の使い方として、ああいう演出はいかがなものか、と感じてしまうんですよ。これは、直感です。

 当時まだ現役高校生の、嫁入り前の、17歳の娘さん••••••あ、今日は橋本環奈さんの19歳のお誕生日らしいですね、え~と、おめでとうございます、それで、その、17歳の女の子にあのようなことをさせて、それを見てヘラヘラと笑っているという価値観が、私には判らないんですよねぇ。

 

 だから、もう、そういうのは、いいんじゃないんですか。

 

 工藤静香さんだって、リリース当初、『嵐の素顔』のあの印象的な振り付けが話題になりましたけれど、もう歌番組に出ても、それをやらなくなったじゃないですか。

 表現、パフォーマンスというのは、状況に応じて変化していくものでもあるんですよね。ずっと同じじゃなくてもいいのです。

 

 それはいわば、状況の変化という名の制約を受けた、ってことだと思います。

 

 

  それと同様に、“女優魂”も、「ご褒美性」の見地から、そして、その人の持つ器や社会的使命などの観点から、制約を受けるものである、との結論が導かれてくるのです。

 

 

 “女優魂”は「表現の自由」なのであり、「思想・良心の自由」ではない。そうであるがゆえに、修正を受けるものとなっているのです。