橋本順一の哲学

芸術、科学、哲学、政治、経済、健康、恋愛、娯楽など、様々な分野において、思いついたことを綴る「ひらめきエッセイ」です。

美少女と公共性

美少女と関わり合いを持つと、その関係は公共性を帯びてきます。

 

 

 

どういうことかといいますとね、たとえば、学校でも職場でもいいんですけれど、或るコミュニティーにおいて、美少女がいたとしましょうか。それで、その美少女の存在は、その場では誰もが知るところとなっているでありましょう。少なくとも、彼女は、人知れずひっそりと存在しているということはない筈です。大抵は、そこでのマドンナ的な存在として、みんなに認知される場合が多いと思われます。

 

 

要するに、美人ってのは、好むと好まざるとに関わらず、「公人」としての立場を受け入れねばならない、というわけなのですね。

 

 

 

 

 

それゆえ、そのような女性と関わり合いを持つということは、そこに公共性が生じてくることを意味するのです。

 

 

 

 

 

 

したがって、美少女と個人的に深い関係を築こうと考えるなら、そこに、彼女が所属するコミュニティーそのものを納得させうるような、クリアな大義名分が求められることになりましょう。つまり、合理的かつ正当な理由がないと、美少女を手に入れることはできない、という結論になるわけです。

 

 

美少女の相手をするってことは、彼女の所属する地域社会そのものを相手にするということと同義なのですね。少なくとも、それくらいのパワーがなければ美少女の相手は務まらない、と考えてよいでしょう。

 

 

そうであるなら、彼女との付き合いにおいては、やましい点があってはならない、ということが、論理必然的に導かれてくることになりましょう。つまり、蔭でコソコソと人目を偲んで関係を深めていくような向き合い方では、そもそも駄目であるということになるのですね。

 

 

 

 

正々堂々と関わり合っていくことが大切なのです。

 

 

 

 

近年、法律や条例などで、少女とのみだらな関係を持つことが厳しく取り締まられるようになってきています。しかし、法的に何らやましい点がないのであれば、彼女の家族や保護者、友人たちにも気兼ねすることなく、堂々と、口説いたり、交際をオ-プンにしたりすべきである、ともいえます。

 

 「公共性を帯びてくる」とは、そういうことです。

 

これは、地域社会レベルでの話です。

ここから、さらに対象エリアを拡張して、全国レベルで認知されている美少女の事例を考えてみたいと思います。すなわち、全国区の美少女タレントさんのケースということですね。

そういう人たちの場合は、芸能活動を行なっているので、商業的な、ビジネス上の関わり合いというものを、考慮に入れる必要があるでしょう。

  

 

これ、けっこう、スケールの大きい話なんですよね。

 

 

つまり、世の中そのものの、構造に関わる論点でもある、ということなのです。

 

 

 

 

 

 

そこに目を向けないと、答えが見えてきません。

 

 

 

 

 

先ほど、地域のマドンナレベルの美少女の相手をするためには地域社会全体を相手にする力がないと駄目である、と述べましたけれど、じゃあ、全国区の美少女を相手にするってことは一体どういうことなのかといいますとね。

 

 

 

 

 

はっきり言いますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義というイデオロギーそのものの相手をするということ

 

 

 

 

 

 

 

 

これなんですよね。

 

 

 

「資本主義」とは何か、について私なりに考えてみた場合に、みえてきたのは、(ものすごくかいつまんで言うなら)、要するに、次のようなことです。

 

 

 

 

 

「社会における構成員相互間の関係を、お金を媒介として結びつける統治理念である。」

 

 

 

 

 

とまあ、こんなような感じになると思います。

 

お金が、人と人との間を規律づけている、ということになるのですね、この社会においてはね。

 

人間って、神様のような、全知全能のパーフェクトな存在じゃないですよね。

(私自身もそうですけれど)欠点だらけの、未熟者ですよね。

一人で何でもこなせる万能の力を持っていませんよね。

他者からの協力を取り付けない限り、単独では大したことは出来ませんよね。

 

でも、自分に出来ないことでも、代わりに他者にやってもらうことによって、欠点を補うことができます。

そうした流れの中で発展してきたのが、ビジネスであるといえます

そして、それを媒介している専用ツールが、お金なわけです(「お金とは何か」というテ-マについては、別記事にて詳述します)。

 

たしかに、それは私たちがこの社会で暮らしていくうえで、便利だし、必要なものでもあります。

しかしながら、人と人とが互いに協力し合って生きていくなかで、両者の間を規律するものは、それだけではありません。

 

 

 

 

 

 

信頼魅力といったものも、人と人との間の関係を、強烈に結び付ける要素となっています。

 

 

 

 

 

それらは、社会レベルよりも、さらに上位概念たる、自然界・宇宙レベルの根本的メカニズムに関わってくる事柄なので、人と向き合ううえで、より普遍的な考え方が求められます。自然の仕組みに精通している必要があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

そのことを理解したうえで、全国区の美少女タレントさんと向き合うことの意味を考えてみましょう。

 

 

 

まず、人って、それぞれ“物差し”というものを持っていると思います。

大きい物差しを持っている人もいれば、小さい物差しを持っている人もいます。

それでですね、資本主義社会やビジネス、芸能活動といったものの中身や全体像を把握するためには、それらを高い地点から、鳥瞰的に眺めうるような、幅広い視点が必要となってくると考えられます。

 

つまり、大きな“物差し”を使わないと、そうした世界・業界の本質が見えてこない、ということになるでありましょう。

 

少なくとも、対象となっている物事のサイズよりも、大きいスケ-ルの“物差し”じゃなければ、それを推し量ることができませんよね。

スケ-ルの大きい物事を測らなきゃならないのに、自分の“物差し”(すなわち“器”)が小さかったら、測定不可能じゃないですか。

 

 

 

 

 

上回っている必要があるんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それ、凄く、大事なことだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

物事を、より大きな“物差し”で測って、その本質を掴み取り、自分がどうすべきかを判断する。

 

 

相手が全国区であれば全国区であるほど、彼女を取り巻いているフィ-ルド内で、たくさんの人々(所属事務所や業界の関係者、ファンの人たちなど)を納得させうるような、汎用性の高い大義名分を、備えていることが求められる。そしてそれは、自然のメカニズムに即したものでなければならない。

 

 

 

 

 

 

美少女タレントさんと向き合うということは資本主義社会そのものと向き合うことと同義であるってのは、そういうことなのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、そうであるならね。

 

 

 

全国区的に活躍する美少女タレントさんとの間に、深い関わり合いを持つという場合にはね。自分の中での“売り”となってくるのは、この人類社会における、最も普遍的なレベルの科学的・哲学的理論である、ということになるでありましょう。

 

 

 

 

 

 

それを駆使したうえでの、付き合いなのですね。

 

 

 

 

 

もしかしたら、この日本で、ふつうに日本人として生まれ、ふつうに日本の常識の中で育ち、ふつうの考え方を形成してきた人であるという場合は、残念ながら、そのことを理解するのは難しいかもしれません。

 

 

 

 

 

「ふつう」じゃ駄目なんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

常識が通用しないのですよ。

 

 

 

 

 

 

だって、イケメンとかお金持ちが有利なんじゃねーの、みたいに思っちゃいますもんね、普通ならね。

 

 

 

 

 

そのような常識が通用しないんですよ。

 

 

 

 

 

 

日本人としての当たり前の感覚が、通じない。

 

 

それだけでは、資本主義社会そのものの相手は務まらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自身の考え方に、ひと工夫もふた工夫もエッセンスを加えて、よりシンプルで普遍的な方向へと、それを深化・法則化していく必要があるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうした作業を続けていく結果、みえてくるのが、「愛」 と「お金」、どちらのパワーが勝っているかで、美少女タレントさんと強い繋がりを持つための大義名分が作れるか否かが決まってくる、ということなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

私たち人間は、個々が、能力別に、分断された存在です。

 

神様のように、あらゆる能力をすべて兼ね備えているわけではありません。

 

各自の個性に応じて、辛うじて、不完全な、未熟な能力が与えられているにすぎません。

 

 

 

 

 

 

 

 

そうであるがゆえに、その分断された「個」と「個」を相互に結び付け、絆を形成し、欠けている部分を補い合う必要が、我々にはあるわけです。生きていくうえでね。

 

 

 

 

 

 

 

そのための(この社会を代表する)補助的ツ-ルが、「お金」であるといえます。

 

 

 

 

 

「お金」は、補助ツ-ルなんですけれど、個々を互いに結び付ける力の度合いは、きわめて強いものとなっています。

 

 

 

 

 

なぜ、そうなっているのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

それは、この社会を構成する個々の成員たちが、悲しいかな、互いに互いを信用していないからです(過去記事でもご紹介したことがあります)。

 

 

信用していなければ信用していないほど、頼るべき補助ツ-ルは強力である必要があります。

 

 

 

 

 

「お金」の“神通力”は、ここから派生してくることになります。

 

 

 

 

これがもし、お互いが強固な信頼関係で結ばれているのであれば、補助ツ-ルなんか無くても、ダイレクトに、利益や刺激、思いやりといった「恵み」を、存分に、与え合うことができることになります。

 

 

しかしながら、意外なようにも感じられるのだけれど、現実はそうじゃないからこそ、「お金」というものがこの社会で幅を利かせているわけなんですね。

 

 

じゃあ、そもそも、なぜ、この社会の構成員たちは、互いが互いに信じ合っていないのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、「多数当事者関係」になっているからですよ、私たちを取り巻く相互の関係がね。それも、めちゃめちゃスペシャリーに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

要するに、「集団」であり、「組織」であり、「チーム」である、ということなのですよ、我々の暮らしているこの世界がね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メンバー数が多い、ということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのような状況のもとでは、互いの間のアトラクション(引力)が、悲しいかな、弱まってしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえば、ズボンのポケットの中に、いろいろな種類の鍵が、複数、入っているとしましょうか。

アパートの鍵、マンションの鍵、実家の鍵、事務所の鍵、車の鍵、バイクの鍵、自転車の鍵⋅⋅⋅⋅⋅⋅といったように、いっぱいある場合ですね。

それで、自分が或る時、手探りで、自転車の鍵だけをそこからピックアップしなければならなくなったとしましょう、急遽ね。

 

 

でも、そういう状況下では、ポケットからそれだけをピンポイントで取り出すのって、なかなかうまくいかないんですよね。すぐにはね。

 

 

なぜなら、そこには他にもジャラジャラと余計なものが同居しており、目的物との間にある直通の、濃い、強固な繋がりが、阻害されてしまっているからなのですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なかなか、一発必中、ってわけにはいかないんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分と自転車の鍵との間のアトラクションを、一発では形成しずらい、ってこと。

 

 

何回かトライアルを重ねた末、ようやく、それを形成し、目的物を手に取ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それと同様に、私たちは、集団で暮らしているがゆえに、互いにアトラクションを弱め合い、求めるターゲットとの間にストレートな関係を結びにくくしてしまっているのです。

 

 

 

 

 だから、トライアルがなかなか効を奏さない。

 

 

 

そればかりか、奇妙で、理不尽に思えるような出来事が、頻発。

理解力の欠如している人やマナーの悪い人、面倒臭い人、或るいは、極端な話、法律や道徳すら守らない人が現われ、自分を悩ませる。咎め立てしようにも、正論が通じない(そのような現象のことを、私の造語で「中和エフェクト」といいます)。

 

 

 

しかもそれを、我々は避けて通ることができない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義社会で生きるってことは、そういうことなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ですけど、恐れることはありません。

 

 

 

先ほどの例でいうなら、ズボンのポケットの中に、自転車の鍵だけを入れておけばいいんですよ。

 

 

 

 

そうすれば、すぐにそれを取り出すことができます。

 

 

 

 

いってみれば、それは、自分と自転車の鍵との間のアトラクション(絆)が強化されていて、互いが互いに、ピンポイントかつダイレクトなストロークを打ち込め合える状態にある、というわけですね。

 

 

 

 

 

 

 

当事者数が、きわめて少ない。

 

 

 

 

 

 

この状態が、最高なんですよ。

 

 

 

 

 

何やっても、うまくいく。

 

 

 

 

 

 

 素晴らしい効果が、もたらされる(そのような現象のことを、私の造語で「エンジェル・エフェクト」といいます)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 余計な邪魔者が少なければ少ないほど、我々は幸せに暮らすことができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

♪ 二人だ~け~の~、世~界~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すいません、また挿入しちゃいました。性懲りもなく(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“乾坤一擲の挿入劇”(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛」はいつだって、“ピンポイント”。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その点が、「お金」との間の最大の違いでありましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お金」を稼ぐためには、私たちは、「チーム」を組んで、集団でそれに取り組まなければなりません。

 

 

 

資本主義社会においては、仕事やビジネスは、いつだって“チーム・プレイ”。

 

 

 

 

携わる人員数を多数、想定し、店舗やオフィス、工場などの大きな「箱」、機械や器具、備品、コンピューター・システムなどの設備、社内政治や会議前の根回しといった立ち回りから販路の開拓、業界における人脈形成、各種の法律上の契約関係に至るまで、幅広く、メンバー数を確保する必要がある。

 

それによって、みんなで、無理なく、経済的な利益を稼ぎ出すことができる。

 

 

 

「経済」はいつだって、“分かち合い”。

組織や集団で協力し合いながら、共に利潤を弾き出し、そうしてから、それをみんなで分配し合う。

それが、「経済」です。

 

 

 

逆にいえば、そこでは“個人プレイ”が許されない、ということでもあります。

どんなに才能豊かな人物であっても、「チーム」を組んだうえで、そこからの信用保証やトラブルがあった場合の損害補填の仕組みといった、バックアップ体制を備えていなければならず、そうでないなら、取引云々という以前に、入り口から弾かれてしまいます。まさに“門前払い”です。

スタート・ラインにすら、立っていない。

 

 

 

 

才能があるにもかかわらず、です。

 

 

 

 

宝の持ち腐れ、というわけ。

せっかくの才能を、そういった理由で眠らせちゃっている人って、この社会にけっこういると思います。

 

 

埋もれちゃっているんですね。

 

 

 

 逆に、とくにこれといった才能が無くても、ちゃんとした組織に所属し、チームを組んで仕事ができているなら、やりようによっては、大金を稼いだり、名を馳せることだって、できちゃったりします。

 

 

 

 

 

世の中、そんなもんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、「愛」の構築は、究極の“個人プレイ”。

 

 

 

自分と相手以外に、関係当事者はいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二人の間の、精神的・肉体的な接合の場面において、あらゆる協力者が、要らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

服さえもね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やっぱり、お互いが、一糸まとわぬ姿のほうが、絶大じゃないですかぁー、引き寄せ合う力がね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

隔てる距離も、ゼロがいい(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

余計なものがあっちゃ困るわけですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「経済」は、逆でしたよね。

メンバーをいかに増員するか、いかに充実した「チーム」を作れるか、が大事。

 そうした前提を備えることができてはじめて、取引相手として受け入れてもらえる。

なぜ、「チーム」とか「組織」が受容されやすいのかっていいますとね、それは、次のような理由に基づいていると考えられます。

すなわちね。集団で仕事をするってことは、そこでのメンバーは、みんな仲間同士であり、業務に対して全員で連帯して責任を負っていることになるわけです。ゆえに、万が一、そのうちの一人が、仕事を投げ出して逃げたり、みんなで分配すべきお金を自分一人が全額抱えて持ち逃げしたりした場合は、仲間に多大なる迷惑がかかることになります。したがって、「組織」というのは、予め、そのようなことにならないように、厳しく構成員を律しているものなんです。仲間を裏切れないようになっているんですね、体制としてね。また、集団であるがゆえに、誰か一人が裏切って取引相手に損害を与えたとしても、それを他のメンバーがカバーするので、そういう点でも、取引先からみて安心材料となり得ます。リスクが小さいのですね。

一方、「個人」でインディペンデントに仕事している場合は、その人が取引相手を裏切ってトンズラを図ったなら、他に責任を取る者は皆無だし、また、事前にそれを防ぐ手立ても無いことが多いでしょう。つまり、相手にとって、リスクが大きいというわけです。

でも、会社や役所などの「組織」は、そのようなリスクがない。

だから、「組織」は「個人」に比べて許容されやすいのですね。

 

 

「組織」は、裏切りや逃亡を防ぐために、そこに所属するメンバーを規則でがんじがらめにするけれど、それが却って相手方からみて受容・認容に値することになるのです。

また、「組織」であること自体が、構成員相互を監視しやすく、牽制しやすい構造になっているともいえるので、やはり、メンバーの暴走を食い止めたり、逃亡を防いだりすることができます。その意味からも、ビジネス社会にとって受け入れやすい存在たりうるのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「逃がさない」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大事なことは、それです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただし、あくまでも、「お金」を生み出すためには、の話ですけど。

 

 

 

 

 

 

「お金」を稼ぐためには、たしかに集団や組織のほうがのぞましいのだけれど、それだと、同時に「中和エフェクト」も発生してしまい、奇妙で理不尽なことが起きてきます。

時間的・スケジュール的に拘束されるし、やりたくないこともときに目を瞑らなければならないし、わりとどうでもいいことで怒られたりするわけです。

 

 

 

 

 

 

 

まるでブラックホールに足を捕らわれたみたいに、身動きが取れず、時の流れから取り残されたような苦しみを味わうことになるのです。

 

 

 

 

 

集団で仕事するほうが取引相手として認めてもらいやすいのは事実です。でも、それって、べつにあちらがこちらを信頼してくれたというわけじゃないんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

ホントは、誰も信じちゃあいない。

 

 

 

 

 

 

 

信じていないからこそ、安心材料を求めているわけですよ。「組織」という名のね。

 

 

 

 

 

 

 

「個人」の自由を制限し、逃げられないようにして、仕事に縛り付けるような体制を整えているがゆえに、「組織」であることが効を奏し、重用されやすくなっている、ってだけの話でしょう。

 

 

 

 

 

 

 そもそも、国の統治姿勢・統治理念が、「組織」重視のスタンスだといえます。

わが国は、謂わずと知れた「資本主義」国家ですよね。

「資本主義」であるとはどういうことか?

それはいわば、「組織主義」みたいなものだと思います。

 

 

国・社会における取引行為の主体については、「組織」を想定しているのであって、「個人」を想定しているのではない、ってこと。

要するに、初めから、「組織」と「組織」のやり取りを念頭に置いて、法制度が作られているのですよ、わが日本国ではね。

「個人」対「個人」の取引関係や、「個人」対「組織」の取引関係って、もともと除外されている、と考えてよいでしょう。

 

 

 

あくまでも、「組織」中心の世の中なわけです。

 

 

 

「組織」こそ、主役。

 

 

 

まるで平安時代末期の武将・平時忠が、平家にあらずんば人にあらず、って言ったみたいに、「組織」にあらずんば経済主体にあらず、みたいな感じになっちゃっているんですよね、幸か不幸かね。

 

 

 

 

 

 

 「資本主義」国家であるとは、そういうことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに、民法、商法、会社法の違いって、判りますか?

ざっといいますとね、民法は、法律上の私的なやり取り全般を扱う一般法規であり、商法は、それらのうち、商行為に関する分野を限定的に扱う特別法で、商法総則と会社法と手形小切手法とに分類されたものをいい、会社法は、そうした分野の中からさらに会社の権利義務関係に特化した領域を扱う特別法である、という感じになると思います。

 

それでですね、そうしてみてくると、一般法であれ特別法であれ、主に、「組織」について規定したルールであることが判ってくるでありましょう。

 

 

 

会社法」という法律はあっても、「個人法」なんていう法律はありません。

 

 「個人」の権利義務関係については、せいぜい、民法で大雑把にカバーしているくらいのものです。

 

 

 

 

その点からも、わが国の、経済というものへの眼差しが、「組織」主体のものとなっていることが窺えます。

この日本国における経済の担い手は「組織」だよ~、といっているわけですね。

 

 

 「組織」が相手であるなら、信頼関係もない代わりに、リスクもないので、取引相手として安全だと見なされているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちの暮らすこの社会が、「多数当事者関係」であるがゆえに、構成員相互間のアトラクションが弱まり、「中和エフェクト」が発生し、人と人とが信じ合えなくなって、「組織」の一員という肩書きばかりが重視されるようになるし、そうした立場に立たない限り、仕事の現場に足を踏み入れることすら許されない。

 

 

 

資本主義社会で仕事をしていくということは、そういうことです。

 

 

 

 

ちょっぴり寂しい気もしますけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それはそうと、美少女の獲得と大義名分の話はどこへいったんだ、とお思いになられたかもしれませんけれど、まあ、最後にちゃんと着地させますんで、もう少々お待ちくださいね。

 

 

「中和エフェクト」と「エンジェル・エフェクト」の話は、めちゃめちゃ重要なので、もうちょっと行数を割いて、説明していきたいと思います。

 

 

 

 

 

興味深いエピソードをご紹介しましょう。

日本一の大金持ちといわれている、実業家の斎藤一人さんが、彼のお弟子さんの著書の中で、次のような趣旨のことを述べておられました。

 

 

「人は、お金をたくさん持つようになると威張ってしまいがちだけど、なぜそうなってしまうのかについては、判らない。」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 判らない⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅⋅。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意外な感じがしません?

「お金」にまつわる事柄に関しては、誰よりも、興味を持ち、研究し尽くし、熟知していらっしゃるであろう斎藤一人さんが、 判らない、っておっしゃっているんですから。

 

 

 

 

 

 

ただ、そうはいっても、なんとなくの理由としては、彼自身は、きっと周りの威張ったお金持ちたちの影響を受けちゃったからだろう、悪いお手本を見習っちゃったんだろう、と分析しておられました。

 

 

 

 

たしかに、人ってのは、身近な他者から大きな影響を受けやすい生き物なので、そういう部分もあるでありましょう。

朱に交われば赤くなる、ともいいますしね。

しかし、それよりも、もっとシンプルかつダイレクトな理由が、あるんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勘のいいかたはもうお気付きかもしれません。

そうです、「中和エフェクト」です(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、基本的に、人って素晴らしい存在である、って思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人は本来的に、善良なんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなの、性善説すぎやしないか、世の中を見てみろ、悪いやつがいっぱいいるじゃないか、との反論もあろうかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、そうなってしまっているのは、ここが「社会」であり、集団」だからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「集団」であるということは、「多数当事者関係」である、ということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうであるがゆえに、「中和エフェクト」が発生してしまい、ちょっとおかしくなるんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘンになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いってみりゃ、集団トランス状態のようなものに陥り、冷静な判断ができなくなっちゃっているんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人って、個人個人は、誰もが、もともと、いいヤツだし、賢くて、落ち着いた判断が出来る、イカした生き物なんですよ。

 

 

 

だから、当事者数の少ない環境に置いてあげれば、素晴らしい能力を発揮します。

 

 

 

たとえば、無人島とかで、独りとか二人っきりとか、少人数で暮らしているとしましょうか。そのような状況下でなら、人は、決して愚かなチョンボを犯さないんですよね。

 

相手を故意に傷つけたり、苦しめたりするような、酷い行いは、しません。

 

 

 

 

 

 ところが、集団になると、途端に、人は愚かになる。

 

 

 

 

 

そして、他者に対して不信感を抱き、騙し合い、攻撃し合う。

 

 

 

 

 

 

 

 

傷つけ合う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言っていいことと言っちゃいけないこと、やっていいこととやっちゃいけないことの区別が、つかなくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

判断力・認識力が、歪んでくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが、「中和エフェクト」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の造語ですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イメージ、判りますよね?

目指すゴールがあって、そこに辿り着きたいのに、なかなか先へ進めない。つまり、自分と目的物との間の引力が弱められ、欲しいターゲットを引き寄せられなくなってしまっているさまを表わしているんですね。

 

 

 

 

 

 

 本調子じゃなくなるんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

これは、自然界における物理・化学法則の現われです。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お金」を稼ぐってことは、必然的に「多数当事者関係」を形成することを意味しているので、「中和エフェクト」の発生は避けられません。

ゆえに、経済的成功を手にしたお金持ちたちが、正しい判断ができなくなり、他者に対して横柄な態度をとってしまう場合も十分ありえますし、また、運良く、正気に戻り、いまの自分が本来あるべき姿から遠退いてしまっていることに気付けたとしても、その原因についてまでは把握できなかったりするのです。

ビジネス界の巨人・斎藤一人さんが、「お金」を持ちすぎることの弊害についていま一つ原因を見極められなかったのは、まさにそのような力学上の理由に基づいていたためなのですね。

 

 

 

 

 

 

これはもう、しょうがないんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

どんな天才だって、そこまでは見抜けないし、気付けない。

誰だって、同じです。

 

 

 

 

 集団の中に足を踏み入れてしまったなら、人は、絶対に、判断が鈍っちゃうんです。

 

 

 

鈍らない人なんて、いません。

 

 

 

 

人間って、100 %そうなるんです。

 

 

 

 

 

 

神様でもない限り、「中和エフェクト」からは絶対に逃れられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じゃあ、橋本順一くんはなぜそのことに気付けたんだ、と思われるかもしれませんけれど、私は、自由なんで(笑)。

 

誰よりもね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

重い十字架を背負っていない(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しがらみが無いってことですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうね、天使が私の周りを取り囲んでますから(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、自分と真実との間に、クリアなアトラクションが作用し、そうであるがゆえに、洞察力が高まって、あるがままの世界像を形成することができたわけなのです(「エンジェル・エフェクト」と呼ばれる所以です)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当事者数が少なければ、それが可能になるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

頑張れば、たぶん、南方熊楠博士にも勝てますよ、洞察力の鋭さにおいてね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

条件さえ整えばね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すごい力を手に入れることができるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰もが、あのフリーザ程度なら一撃で倒せるほどのパワーを出せるんですよ(界王神さま風に)。キラッ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カニズムは、きわめて単純です。

 

 

要するに、当事者数が少なければ「エンジェル・エフェクト」が働くし、それが多ければ「中和エフェクト」が働く、っていうだけのことです。

 

 

 

 

 

すべては、当事者数次第なのですね、わが見解においてはね。

 

 

 

 

 じゃあ、ここで、仏教との類似点および相違点について、触れておきましょうかね。

 

 

 

仏教(お釈迦様)の考え方っていうのは、こうです。

すなわちね。人間は、欲深い存在であり、そのせいで認識力が鈍り、歪んだ世界像を形成してしまう。したがって、欲を捨てたなら、我々は本当の真実を正しく把握することができるようになる。とまあ、このような感じの論旨になると思います。

 

要するに、欲を捨てられるか否か、がテーマになっているといえましょう。

 

あるがままの真実を見極めるためには欲を捨てなければならない、としているのですね。

 

 

 

 

それに対して、私の考え方(万物理論)は、こうです。

すなわちね、個々の人間は本来、優れた認識力の持ち主なんだけれど、集団になるとそれが鈍り、歪んだ世界像を形成してしまう。したがって、当事者数を減らしたなら、我々は本当の真実を正しく捉えることができるようになる。とまあ、こんなような話になるわけであります。

 

要するに、当事者数を減らせるか否か、がテーマになっているといえるのです(詳しいメカニズムについては、こちらをご参照ください⇩)。

 

hirameking.hatenablog.com

 

 

人間は一定の条件のもとに認識力を歪めさせ世界像を正確に形成できなくなる存在である、と捉える点では、お釈迦様も私も同じです。

 違うのは、そうなってしまっている原因と、それに対する解決策についてです。

仏教では、そうなってしまう原因は欲にある、としています。一方、わが万物理論では、当事者数が多いことが原因である、としています。

原因分析が異なるので、当然、対処法も異なってきます。すなわち、仏教では、欲が原因なんだから欲を捨てよ、と説くのに対し、わが理論では、当事者数が多いのが原因なんだから当事者数を減らしなさい、欲の有る無しは関係ないんだ、と説くことになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、もう一点、触れねばならない大事な違いがあります。

 

それは、救済の対象となる範囲についてです。

すなわちね。

仏教は、誕生当初、人々の「精神的な苦しみ」を解消することだけを目的としており、「肉体的苦痛」についてはこの限りでない、としていました(後世になってから登場してきた新しい宗派の中にはそれを目的とするものもあるかもしれませんけれど、調査中であり、よく判りません)。

一方、わが万物理論は、「精神的苦痛」からの救済、「肉体的苦痛」からの救済、どちらについてもカバーしています。

そこが、両者の間の大きな相違点となっているのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここ、論理的にすんなり理解できるところだと思います。

 

 

 

仏教は、我々の眼に映る世界像が歪んでしまう原因を、欲というものに見出だしているため、それを除去し、心の平安を実現しようとする、そういう実践理論です。

だから、この教えを実行して、世界像がクリアになり、気持ちがハッピーになれたとしても、怪我や病気などの「肉体的苦痛」についてまでは(ただそれだけでは)取り除くことはできない、と結論付けています。

まあ、気持ちの問題、ってことですよね。

 

 

それに対し、わが万物理論は、あらゆる苦痛や不都合、不合理さの原因を、当事者数が多いことに見出だしているので、「精神」と「肉体」の両面において、当事者数の削減を目指そうとする実践哲学です。

したがって、その作業を行うことでどちらの苦痛も消去できる、と結論付けることが出来ることになります。つまり、心の平安を得られるばかりか、怪我や病気に対してまでも、実効的な解決を導くことができるのです。

 

たとえば、癌という病気について、詳しくみてみましょう。これは、体内で癌細胞が発生し、それがどんどん増殖していく、という病気です。或るデータによると、300万個まで増えると患者は死に至るらしいです。死なずに済んだとしても、体内に余計な異物が増えるならば、本人の限られたエネルギーをそれらとシェアさせられる羽目になるから、苦しいのは当然でしょう。つまり、細胞1個1個 のエネルギーの取り分が減り、不十分な状態で時の流れや環境の変化についていかねばならなくなるので、生命活動がしんどくなってしまうのですね。癌細胞の個数が増えれば増えるほど、しんどくなることになります。

食中毒も、そうですよね。体内で細菌が増殖することで、苦痛が発生します。苦しみのメカニズムは、癌と一緒です。

インフルエンザも、そう。

したがって、そのような癌細胞や細菌、ウイルスといった異物も含めた、「多数当事者関係」が体内に形成されてしまったため、「中和エフェクト」が発生し、理不尽な苦しみに見舞われてしまったのだと、解釈できるでありましょう。癌細胞や細菌も、当事者(メンバー)としてカウントされてしまっているのです。

そんなメンバー、要らないですよね。

したがいまして、そのような余計な当事者数を削減すれば、そうした苦痛はなくなることになります。

 

 「肉体的苦痛」までも、わが万物理論では、きちんと守備範囲内に収まっているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういう意味では、わが万物理論は、「肉体的苦痛」については救済の対象外とする仏教以上の、優れた実践哲学であるといえましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、それを自分一人の手で生み出せたことを、とても誇りに思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏教は、お釈迦様が悟りをひらいてから今日に至るまで、およそ2500 年間に亘って存続し、人々の心を救済してきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ならば、私の理論は、少なくとも、3000 年くらいはいけるんじゃないかと(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私のような未熟者でも頑張ればこれくらいのことができたのですから、あなたもきっと、すごいことができるはずです(当事者数を絞ればね)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 逆に、当事者数を増やしてしまい、「多数当事者関係」を作り出してしまうと、人と人との間の結び付きが空虚になり、思うように事が運ばなくなります。そうした作用のことを、私オリジナルの呼び方で、「中和エフェクト」といいました。

 

 

しつこいようですけれど、この話はめっちゃめっちゃに大事なので、もうちょっとだけ説明させてください。

 

 

組織や集団などの「多数当事者関係」が形成されるとなぜ、「中和エフェクト」が発生するのか、という理由について、詳しく述べていきたいと思います。

 

 

 

 

法律というものを参考にして考えると、判りやすいかもしれません。

 

 

 

法律って、民法でも刑法でもそうなんですけれど、条文が書かれてあって、「1 項」、「2 項」とか、「本文」、「但し書き」といった具合いに、区分けして記述されている場合が多かったりします。

それで、「1項」や「本文」などの、条文において初めに出てくるほうの文章が原則を示し、あとに続く「2 項」や「但し書き」などの、追加的・補足的に書かれてある文章が、例外について規定したものとなっています。

 

 

 

 

つまり、基本原則と、それに対する修正論とが、順番に並べられているわけですね。

 

 

 

 

 

法律の条文ってのは、大体そんな感じになっているのです。

 

そのこと自体、もうけっこう複雑に思えてきてしまいますよね、読む側、勉強する側からみればね。

だって、原則だけが書かれてあるにすぎないなら、シンプルで判りやすいのに、あとからそれが覆されちゃうんですもんね、特殊例によってね。

せっかく原則を苦労しつつも理解できたと思ったのに、また新たに例外を覚え直さなきゃならない。

 酷い場合だと、原則に対しての例外が規定されていて、さらにその例外が設けられていて、そのまた例外がさらに付け加えられていて、さらにそのまた例外が書かれてある、みたいな条文もあるんですよ。

 

 

「例外の例外の例外の例外」、みたいな。

 

 

 

それって、かなり面倒くさいですよね。

 

 

 

 

 

 

複雑。

 

 

 

 

 

 

事情が、いくつも込み合っている。

 

 

 

 

 

いり組んで、絡み合っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、読む側としては、(読解するための)集中力が切れてきて、読んでいて眠くなってきちゃう(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このように、複雑すぎる内容って、人を惹き付ける魅力(アトラクション)が乏しいことが、お判りいただけると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、そうであるならね。

「多数当事者関係」においても、同じ理屈が当て該まることになりましょう。

すなわちね。互いに利害関係で結ばれ合った或るグループ内で、構成人員がたくさんいるという場合(多数当事者関係のケース)、たとえば、Aさん、 Bさん、 Cさん、 Dさん、 Eさん、 Fさん、 Gさん、 Hさん、 Iさん、 Jさん、 Kさん、というふうにメンバーがいるとしましょうか。それで、それほどまでに多くの人数が同じコミュニティ内に同居しているとなると、複数のルールが混在し、互いにぶつかり合って、修正し合うようになっていくんですよね。つまり、ルールA 、ルールB 、ルールC 、ルールD 、ルールE 、ルールF 、ルールG 、 ルールH 、ルールI 、ルールJ 、ルールK 、っていう感じで、人それぞれ価値観とか信念、考え方といった、「ルール」を自分の中に持っていると思うんですけれど、そして、それをできれば貫き通したいと願っていたりすると思うんですけれど、その願いが打ち砕かれるんですよ、集団であることによってね。修正を受けるから。

 

どういうことかといいますとね。

たとえば、ルールA とルールB がぶつかり合って、互いに妥協点を探り合い、ルールC が生まれた。それは他の多数のメンバーの賛同を得て、基本原則となった。しかしそれは同時に、ルールD とルールE に抵触していたため、ルールF とルールG の精神を取り入れて、新たにルールH を生んだ。それはルールI と内容的に大部分が重複していたので、不要論を唱えるメンバーが増えてきて、ついには削除要請がなされるまでに至ったのだけれど、I がこれに強硬に反対したため、そのことに不服を唱えるJ とK が独立し、グループから去っていってしまった。残ったメンバーは、その事件を深く反省し、再発防止策を練った。それはルールJ K と呼ばれた。しかしそれは、ルールAやルールBの時代に逆戻りしそうな思想を含んでおり、ルールCが誕生した意義を失なわせかねないものだった、、、というような感じで、みんなが、どんどんルールを修正していって、よく判らない、澱んだ、ぼやけたようなものにしてしまうのが、ルールの混在という現象なのです。

 

 

 

 集団だから、そうなるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

せっかくルールがそこにあるのに、規定力や実行力を弱めてしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、ヘンな出来事が起こる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが、「中和エフェクト」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、世界人口が二人だけだとか、無人島で二人だけで暮らしているというようなケースであるなら、ルールなんて、せいぜい、AとかBくらいまであれば事足りちゃうんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それほど修正せずとも、二人が納得でき、遵守し合うことができ、平和に暮らせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エネルギーに満ちた、幸せな日々が続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが、「エンジェル・エフェクト」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこには強烈なアトラクションが作用しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分を好きになれるし、相手のことも好きでい続けられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「エンジェル・エフェクト」に満ち溢れた空間では、人は、いがみ合うことのほうが難しい(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どんなに気に入らない相手であっても、無人島で二人っきりでいるなら、不思議と、いいやつに思えてきちゃったりするもんなんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえ二人の関係が、いじめっ子といじめられっ子だったとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

泥棒と刑事とか(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テロリストとアメリカFBI長官とか(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案外、仲良く暮らせちゃうんですよ、理論上はね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いじめも戦争も、起こりようがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それらはなぜ起こるかっていえば、「集団」だからなんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学校にしろ、国家にしろ、「組織」であり、「社会」であり、「集団」じゃないですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

集団は、ときに、愚かになるもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえば、ハロウィンのときの、渋谷センター街での暴動が、ありましたよね。

 

 

或るいは、立教大学の学園祭のときに、1000人あまりの聴衆が野外会場へ一挙に押し寄せて、庭木を薙ぎ倒したり女性客に怪我を負わせたりしたため、女優の橋本環奈さん出演予定のトーク・イベントが、急遽、中止になるという騒動もありましたよね。

 

 

それらの事例をみれば、よくイメージできるかと思います。

そこにいた当事者たちも、一人一人は賢く、善良な人たちだったりすると思うんですけれど、とくに立教大学の学生さんなんて厳しい受験競争を勝ち抜いて難関校に入ったエリートだといえると思うんですけれど、「集団」になると、残念ながら、持ち前の冷静な判断力を失い、正しい振る舞いができなくなってしまったりする(場合もある)んですよね。

 

 

 

また、或るいは、イエス・キリストって、愛弟子が13人いたじゃないですか。そうすると、キリスト自身も含めて、14人の「集団」を組んで、布教活動や啓蒙活動、救済活動を行なっていたと考えることができますよね。

それで、悲しむべきことに、弟子の中からキリストを裏切る者が出てしまいましたよね。

すなわち、ユダが、お金と引き換えに、師の居場所をローマ総督府に密告したため、キリストがのちに捕らえられ磔の刑に処せられるという事態になってしまったわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キリストの愛弟子ですら、そうなんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼らほどの賢者・人格者であっても、「集団」を形成してしまえば、過ちを犯してしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いわんや、我々においてをや、です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当事者数を意識するってのは、とても大事なことなんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、彼らの事例からすると、もしもなんですけれど、学校教育の現場で、仮に少人数クラス制を導入しようと考えるなら、「14人」って、ひとつの目安になるんじゃないでしょうか。

キリストおよび13人の弟子たちから成る「14人」の教団(=集団)の中から、1人、裏切り者が、出た。

それを基準に考えれば、「中和エフェクト」は大体そのくらいの規模の人数から発生し始めるのではなかろうか、ということがなんとなく、推測できそうです。

 

したがって、少人数学級の導入については、児童・生徒の数は10人くらいまでが妥当なのではないか、とみなすこともできましょう(もっと少なくてもOKだと思います)。

 

 

 

 

 

 そうすれば、いじめや非行などの問題に取り組むとき、一定の効果があがるんじゃないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このように、当事者数をあまり増大させないようにすることは、一人一人の幸せを実現するうえで、きわめて大切なことなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

従いましてですね、私たちは、悲しみや悩み、争いなどといった苦難から逃れるためには、究極的には、「社会」、「組織」、「集団」から脱け出し、独りもしくは少人数で活動したり生活したりするのが理想である、ということになりましょう。

たとえば、前述したように、無人島とかに逃げ込めれば、ベストであることになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかしながら、現実問題として、私たちが社会生活上そうした環境を手に入れることは、ほぼ不可能でありましょう。

仮に可能だったとしても、同じ行動を起こす人が多数その島に殺到してしまえば、また新たにそこが「多数当事者関係」の場と化し、次なる「中和エフェクト」を発生させるだけのことです。

 

 

 

 

 

よって、社会生活、集団生活を続けつつも、なんとかして「中和エフェクト」の発生を防いだり軽減したりする方策を考え出す必要が、我々にはあることになります。

 

 

 

 

 

 

 

ここで、大事になってくるビジョンがあります。

 それはね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

罪を憎んで、人を憎まず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これですよ。

 

どういうことかといいますとね。まず、自分が「集団」内で何らかの活動をしているとしましょうか。たとえば、会社で或る仕事を、チームを組んで行なっている場合にですね、そこは「多数当事者関係」が出来上がっているといえるわけなんですけれどね、そうすると、ほぼ100%の確率で、「中和エフェクト」が発生していると考えられるんですけれどね。

だから、上司や先輩、同僚などから、(ときに)嫌なことを言われたり、されたりすることもあるわけですよ。それも理不尽な理由に基づいて。

こちら側に非がなかったとしても、「集団」の中にいる以上、どうしてもそういうことは起きてきてしまうんですよね。多かれ少なかれね。

 

ムカつきますよね(笑)。

イヤなヤツだねぇ、と思いますよね(笑)。

 

言い返したりしたくなるときもありますよね。

 

 

 

 

決して、あなたのその感覚、間違っていません。

 

 

 

 

でも、 だからといって、相手が悪者なのかっていうと、そういうわけでもないんですよ。

 

 

 

 なぜなら、その人は、「中和エフェクト」の作用によって、そういう言動を取っているだけだからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

職場では、自分の目にイヤなヤツとして映っていたとしても、無人島で二人っきりで過ごすなら、その人だって、けっこういい人だったりするんですよ。意外にね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、責められない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

究極的には、その人のせいじゃあない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かといって、こちらが悪いわけでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰が悪いわけでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰のせいでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、そこが「集団」であるがゆえに、「多数当事者関係」が形成され、「中和エフェクト」が発生して、理不尽で、奇妙な出来事が起こってしまった、、、、、それだけのことにすぎません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この感覚、めちゃめちゃ大事なので、ぜひ、心に留めておいてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怒りの矛先を、誰か特定の個人に向けるべきではない、ってことなんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悪いのは、「人」なんじゃあない。

あくまでも、「人の集合体」であるところの、「多数当事者関係」が悪いだけ。

 

 

 

 

しいていえば、「中和」が悪いんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「集団」の構成員ひとり一人は、悪くない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「罪を憎んで、人を憎まず。」っていうのは、そういうことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん、私自身も、未熟者だし、「集団」の中に足を踏み入れれば、他の人からみて、イヤな人間に映ることもあるでしょうし、それはもう、しょうがないんですけれど、でも、橋本順一くん、悪くない(笑)。

 

悪いのは、「中和」のほうなんで(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この感覚に慣れてくると、非常に、精神衛生上、ラクです(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たち人間は、神様とは違って、個々が能力別に分断され、不完全な存在であることを余儀なくされており、一人では生きてゆけないので、「集団」を形成し、互いに助け合って生きていく必要があるのだけれど、そうであるがゆえに、「中和エフェクト」を発生させてしまい、様々な苦難に見舞われてしまいます。

 

 

 

そして、それは防ぎようがないし、そうなってしまったとしても、しょうがない。

 

 

 

 

 

気にしたってしょうがないことは、それが「しょうがない」ことだと判ると、気にしなくなるし、気にならなくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえば、この星では、太陽は東の地平線から昇って西の地平線へと沈んでいきますよね(南極点や北極点を除きます)。

それは神様が決めたメカニズムですよね。

 

 

「俺だったら逆にするんだけどな。」

「俺がもし神様だったら、西から昇って東へ沈むようにデザインするんだけどな。」

 

 

・・・って、いくら言ってみたところでしょうがない、っていうのと同じくらいしょうがないんですよ、集団生活の中で「中和エフェクト」に見舞われちゃうことはね。

 

 

 

 

 

 

また、或るいは、私たちの身体って、心臓は左胸にありますよね。

それは神様が設計した位置関係ですよね。

 

 

「俺だったら逆のほうがカッコいいと思うんだけどな。」

「俺だったら絶対、右側にするんだけどな。」

 

 

・・・って、いくら言ってみたところでしょうがない、っていうのと同じくらいしょうがないんですよ、「中和エフェクト」を気にすることってのはね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、神様がお造りになられた、自然の法則なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それに基づく苦しみの発生は、しょうがないし、誰のせいでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だからこそ、気にしなくていい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本人さえ気にしなくなったのなら、それは苦にならないでしょうし、「苦」だとはいえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この段階では、まだ「個人レベル」の取り組みであり、自分一人だけの満足だと思うんですけれど、(もしかしたら)そうした姿勢が徐々に周囲に波及していき、評価されたなら、今度は、「集団レベル」で、不具合いや齟齬、トラブルなどの障害に対して、許し合える空気になっていく場合もあるかもしれません。理論的には。

 

 

 

まあ、それはあくまでも、理想ですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベストなのは、やはり、無人島に行っちゃうことでしょう(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

触らぬ神に祟りなし(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

君子危うきに近寄らず(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たぶん、私たちは、まだ、本当の、怒りやストレスに関する正しい処理方法を、よく知らないんだと思います。

自分の中にある、そうした負の感情を、どこに、どれくらい、どのようにしてぶつければいいのか、或るいはぶつけるべきでないのかが、よく判っていないのだと思います。

 

 

ゆえに、多くの人が、次の2パターンを辿ることになるんだと思います。

 

 

 

 

 

①相手のせいにして、相手を責める。

②自分のせいにして、自分を責める。

 

 

 

 

 

この2つですね。

 

なかには、①を、喰うか喰われるか、やるかやられるかの勢いで、やってしまう人もいます。

それ、テンションがおかしいとか、そういう次元の話じゃなくて、そもそも、おかしいんですよね、処理方法としてね。

ていうか、①も②も、どっちも、処理方法として不適切なのですよ。

なぜなら、誰のせいでもないからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちは、本来、誰かのせいにしたってしょうがないことを、誰かのせいにしてしまっているんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

そうしてしまうのが無意味であるにもかかわらず、そうしてしまっているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、誰のせいでもないことを悟れば、誰のせいにもしなくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だって、誰のせいでもないんだから、しょうがないじゃないですか(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人は、誰もが、もともと光り輝いている存在です。

 

 

 

 

なぜなら、この世自体、もともと光り輝いているわけだから、その構成員たる私たち一人一人も、もともと光り輝いていると考えられるからです(詳しくはこちらをご参照ください⇩)。

 

hirameking.hatenablog.com

 

 

 

 

従いまして、私たちは、一人一人が、もともと、幸せに生きられるようになっているんですよ、特別な何か(物品や資産、権力など)に過剰に、強迫的に、依存しなくてもね。

 

 

 

 

 

そんなに、カリカリしなくても、大丈夫なんです。

 

 

 

 

 

もともと「エンジェル・エフェクト」に包まれているのが本来の我々の姿なのであって、「多数当事者関係」に基づく「中和エフェクト」さえうまくいなせるなら、ハッピーになれて当然なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

仏教の3本柱の一つ、「涅槃寂静」の考え方とほぼ一緒ですね(ちなみに、残る2つは、「諸行無常」、「諸法無我」です)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸せになるための、プロパーのテクニックみたいなものって、とくに必要ないんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人並み外れた才能とかも、これといって必要ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜなら、一人一人が、もともと、強烈な輝きを持っているからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、むしろ、焦ってヘンなことや余計なことをしないということのほうが、大事になってくるんじゃないかなと、私は思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奇を衒う必要はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過剰なデコレーションは要らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分を実物以上に、大きく見せたり強く見せたりしようとする必要は、ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありのままでいいじゃないですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちは、もともと、等身大の自分のまま、輝けるんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当事者数さえ絞れればね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それさえ少なくできれば、人は、勝手に輝きだすんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最終的な到達点は、そこだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お互い、頑張っていきたいものですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、そんなわけでございましてね。

私たちは自分の所属する「集団」とどう向き合うかによって、心の安寧を図れるか否かが決まってくるのであり、それは専ら当事者数を減らせるかどうかにかかっている、との結論が導かれて参ります。

 

 

 

 

 

公人としての地位にある全国区の美少女タレントさんとの向き合い方においても、それは同様です。

 

 

 

 

 

私は、この記事の冒頭あたりで、「大義名分」という言葉を使いました。それは美少女タレントさんと近い距離で向き合ううえで求められる「要件」のことなんですけれど、幾つか、想定され得ます。

まず初めに何よりも満たしていなければならない大前提は、「個性」です。それも強烈な、ね。

一人の男性として、強い刺激とオーラを備えている必要があるのです。どんなお金持ちや人気芸能人にもひけをとらぬような、大きな魅力を身に纏っていることが求められます。そうでないなら、残念ながら、手も足も出ない、と考えざるを得ないでしょう。気の遠くなるような長い道のりだとは思いますけれど、それを身につけることができるようになるまでは、ひたすら、努力あるのみです。

 

次に課せられる「要件」は、「二当事者関係」です。

つまり、「一対一の関係」ということになります。

三角関係とかじゃ、駄目です。ましてや、四角、五角、六角、それ以上、、、っていうふうに、「多数当事者関係」の中に、相手がいて、自分もいる、という場合は、もっと駄目です。

なぜなら、繰り返しになりますけれど、そこでは「中和エフェクト」が発生して、お互いを結ぶアトラクションが薄まってしまうからです。

 

近年、インターネットの普及により、時空を飛び越えて人と人とがお互いの存在を知り、それぞれの発信する情報に触れ合うことが、容易になってきました。

しかし、そうした状況では、とてつもない「多数当事者関係」が形成されているため、二人の間の絆が弱められてしまうおそれがあります。

相手が有名人であるなら、尚のことです。

二人の周囲を取り巻く関係者って、どれくらいいるでしょうか?

家族や親族、友人たち。

各々の勤め先、その仲間や取引相手、支援者、ファンの人たち、、、。

お互いの所持・利用するモバイル端末、その運営会社やプロバイダー、通信事業者、そしてその従業員、、、などなど。

そうしたたくさんの人々との(直接的・間接的)関わりを通じて、二人の間の絆が形成されている。

 

それって、もう、ほぼ日本人全員を相手にしているようなもんですよね。

いや、グーグルやマイクロソフトなどのグローバル企業との関わり合いも含めれば、(間接的には)世界規模の「多数当事者関係」の渦中に、二人がいる、といっても過言ではありません。

 

 

 

想像を絶するほどの、スーパー「多数当事者関係」。

 

 

 

そこでは「エンジェル・エフェクト」が生まれにくくなってしまっています。

 そのような複雑化した状況下では、両者間に強い繋がりが出来ずらくなってしまうのです。

目には見えないので、実感は湧きずらいかもしれませんけど。

 

 

誤解しないでいただきたいのは、二人を除く他の人々が大切でないということでは決してありません。上に列挙した人たちは、もちろん、掛け替えのない大事な存在だし、二人もしくは各自の人生において重要な役割や影響を与えてくださっている有り難い方々です。

ただ、ここで述べているのは、恋愛においては、あたかも磁石のごとく強い引力を作り出せるメンバー構成は二極化されたもの(すなわち二当事者関係)がベストだと考えられるのであって、多極化されたもの(多数当事者関係)はどうしても、そうした長所を弱めてしまうといわざるを得ない、ということなのです。

恋愛だけがすべてではないし、二人のみの付き合いだけが人間関係ではないことは、いうまでもありませんけど、今日のこのブログで扱っているテーマは、それに関するものでもあるので、ご了承いただけると嬉しいです。

 

ところで、次のようなことも気にかかってきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美少女の“心のコップ”の中には、一体、何が入っているのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もし、自分という名の“純水”で、中身がいっぱいに満たされているなら、晴れて、彼女と恋仲(夫婦仲)になれると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、これがもし、中に“別の液体”が入っている、もしくは仕事や学業といった別の興味事への情熱で満たされているという状態であるなら、そこにはもう自分が入り込む余地はありません。

なぜなら、水位ぎりぎりまで“水”が入っているので、さらに自分のぶんの“水”までは注ぎ込めないからです。

 

 この場合も、残念ですけれど、手も足も出ません。修行して男としての実力を高めるなり、彼女の心の整理が一区切り着くまでじっと待つなりして、チャンスを伺うしかありませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでは、ここからは、私やあなたが諦めなくてよいレベルに到達出来ていると(希望的に)仮定したうえで、「二当事者関係」を作り出すための要件について論じていきます。

 

 

 

 次の2点が大事になってくるでしょう。

 

「彼女に対し婚姻関係締結の提言を行うこと」

「ご両親(所属事務所)のもとへ挨拶に赴き交際の許可を(正式に)得ること」

 

このうちのどちらか一方または両方を満たす必要があると考えられます。

それらの行いは、いずれも、こちらの誠意を相手方に判っていただくためのものです。

 そうすることで、1組の男女が「多数当事者関係」の中から新たに「二当事者関係」を築き上げることが、可能となるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

そして、その関係が、皆から祝福を受けるような関係であること。 

 

 

 

 

 

 

そうなってはじめて、自分が美少女との恋を公共化できたといえるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上

 

 

 

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最後までお読みいただき、ありがとうございました。